旅行その1


一週間、バリ島に行ってきて、昨日帰ってきた。一年遅れの新婚旅行と称して、バカンスを満喫した。行く前には、少しは観光をしようと思っていたのだけれど、実際にはどこにも行かなかった。広大なホテルの敷地からも食事以外にはほとんど出ず、何もしないで過ごした。朝起きて、プールサイドに行って長椅子の上でうとうとし、昼飯を食べながらビールを飲み、またプールサイドで昼寝をし、本を読み、夕方五時くらいから酒を飲む。これを繰り返してきた。本当に何もしなかった。
旅行に行くなら南の島と決めていた。東南アジアと中国という、二回の貧乏旅行以外で日本を出たことはこれまでなかった。そういう旅行は、体力的にもたぶんもう無理だし、何より日常で疲れていた。そんなわけで、バカンスの妄想が広がっていた。
日本よりも暑いのかと思っていたら、夜中に着いたバリ島は、日本よりもはるかに涼しかった。昼間になっても、日差しはさすがに経験したことのないほどの強烈さでも、空気はさわやかだった。写真のとおりのかんじで、影の輪郭がはっきりしていた。(つづく、と思う)

銘柄変更

久しぶりに煙草を変えた。マルボロの1mg。とうとうここまで来てしまった。これまではたぶんマルボロマルボロミディアム→マイルドセブンライトという順序で来たと思う。マイルドセブンにしたのは300円になったのを契機に。今回マルボロシリーズに回帰したのは、1mgで味がしっかりしていそうだったから。
こんなに軽い煙草したのは、風邪をひいている間、あまりに咳がひどくてこれまでのものが吸えなかったというのが理由。風邪のひどい咳も煙草を吸えば収まるのではないかという勘違いで、つらくてもやめる気にはならなかった。ひどい症状でつらくなった精神を和らげる効果は抜群です。代わりに体へのダメージはひどいけど。
今年の夏風邪は咳と痰が本当にひどい。でかくて黒ずんだ塊みたいなのが出るし、咳き込みすぎて喉の奥が切れたらしく血まで出るし。その状態が数日続いて、肋骨に痛みが走るまでになった。肺病を疑いましたね。精神的な治療薬としての抜群の効果への信頼と、肉体に対する不安から煙草を変更したと、そういうわけです。
煙草の真の効用がひとつだけあるとしたら、それは様々な言い訳を作り出す訓練になる、ということくらいだろうか。さらに付け加えるなら、その言い訳に説得力がゼロであることを自覚しながら、それを堂々と表明することも。もうひとつ、自らの意志の弱さを認めない意志の強さを作ることにもなるかもしれない。

お勉強

巣立ってしまったかと思った燕、しばらく毎晩帰ってきて、朝になると出かけるというのが続いていたけれど、今日はとうとう最後の一羽になっていた。みんなはどうしたんでしょう。彼はどうするんでしょう。取り残された者の悲哀、俺はよーくわかるよ。
さて、最近は講義の準備も兼ねていろいろお勉強している。心躍ることはあまりない。啓蒙思想をきちんと読もうとすると、気が狂いそうになる。まったくおもしろくない。京大人文研のその昔の研究というのはいったいどんなものだったのだろう。終わってしまえばもはや誰も後に続きたいとは思わなくなるような領域なのかもしれん。思想を内在的にやるのではなくて、現実との関わりがどうだったのかということを理解しなければ、勉強すること自体にあまり意味がない。その意味で阪上孝氏の本とか、すごい。残念ながら真似をすることはできない。
本日は毛色を変えてモンテスキュー。隅々まで読むことはけっしてない。哲学系で言う「研究」対象のテクストと、思想史で「研究」対象とされるテクストって、やはり違うんですねえ。
まあ、あれですな。古典を読んでそれを研究しようと思うようになるなんてことはほとんど起こらないんでしょうな。読むだけでおもしろいとか、現在を理解できるようになるとか、現在の条件が明らかになるとか。それこそお勉強の積み重ねで可能になるのかもしれないけれど。個別のものを積み重ねて一つの視覚ができあがるなんてことは、本当にあるのだろうか。それをやった人たちは、本当にえらい。

こちらは近所の写真。数か月前に撮影。

田中

『コンビニアフロ田中』が、とうとう最終巻を迎えてしまった。二週間に一度の金曜日が楽しみだったのに。もともとはスピリッツで連載されていて、題名が、『○○アフロ田中』の「○○」の部分が「高校→中退→上京→さすらい」に変わっていった、というものである。まあ題名のとおりのマンガです。
国民的マンガの主人公である不愉快なガキが住んでいる埼玉県の街よりも、同じ路線でさらに北上したところにある辺鄙な場所が舞台。さらに正確に言うと、今年の高校野球の埼玉県大会決勝で敗れてしまったあの高校の最寄駅らしきところ。まあ、郊外の奥地といったらよいだろうか。そこで生きる冴えなくてもてない若者たちの無益で不毛な日々を描いたマンガです。なんかねえ、自分の10代のころを思い出して、本当に笑えるんですよ。出身地からは少し離れているけれど、埼玉県の若い馬鹿な男があまりにもリアルで……。
そのリアルな男たちに対して、女たちのあまりに類型的な描写よ。中身が何もない。冴えなくてもてない男を通して見ると女というのはこのような存在にまで縮減されてしまうのか、と。確かに自分の記憶にもあるような。草食系男子たちが読んだら、何と思うのだろう。
夏休みに暇だったら読んでおくとよい本、という話をしたときに、思わずこいつも生徒に紹介してしまった。ちょっとまずかったな。しかし、できれば女の子に、若いうちに読んでおいてもらいたいような気もする。これまたまちがった教育だけど。

つまらない文章

一般教養で哲学の授業をしようとすると、デカルトのような超王道か、あるいは身近な話題に結びつきやすい文章を選ぶことになる。学生に感想を書かせると、前者にはあまり心ひかれることがなく、後者に関しては本当に雄弁になる。しかし、学生が書いた感想のおもしろさという点では、圧倒的に前者のほうがおもしろい。「身近な話題」については本当に凡庸なことしか言わない。端的に言って、退屈すぎで最後まで読みきるのが苦痛なくらいだ。
そもそも、近世の哲学は、現代日本の日常生活に関わりがある事柄は、たぶんほぼ皆無だと思う。経験論だって、経験から理解することはほとんどできない。そうすると、それまで触れたことも考えたこともないことを、無理矢理にでも、はじめて考えることになる。頭かちこちの拒絶反応を見せる学生も少なくないけれど、そうでなければこちらが思いつかないような感想をもつ。
けれども、身近な話題に関しては、もうすでにそれまで生きてきたなかで、ある程度は定まった考え方を身につけてしまっている。そして、誰もがそれについて考えてしまっているせいで、いくつかの型に分類することができてしまう。もちろん、それぞれの型の内実を詳細に論じつくすだけの力があれば、おもしろいことも言うことができるのかもしれない。でも、残念ながら、若くしてそんな能力を発揮できる人はまずいない。
退屈の原因はそれだけではない。おそらく「自己主張」をする文章というのは、おおよそのところ、あまりおもしろいものではないのだと思う。「俺の考え」をダダ漏れにすると、つまらない文章に必要なすべての条件が吸い寄せられるような気がする。あんまりうまく説明できないけれど。さっき岩波のPR紙『図書』で高橋源一郎加藤典洋の対談を読んで、なんとなくそう思った。

夏風邪か熱中症

風邪をひいた。直射日光の炎天下で自転車をこいで冷房のきいた図書館で作業をすることの繰り返しがよくなかったのかもしれない。ハーフパンツでサンダルというのも、体に負担をかけた。おかげで昨夜は長そでをきて震えながら寝ることになった。もしかしたら熱中症なのかもしれない。体温調節ができない。気温が高くなると体温も上がり、夜になると平熱になる。汗もでない。地球はエアコンなしでは住めない惑星になりましたね。
毎年のように暑い季節に風邪をひく。小学生のころは夏休みに祖母の家で必ずと言ってよいほど39度以上の熱を出していた。幸いなことに、今年はお腹をおかしくするようなことはなかったけれど。しかし、熱中症で死ぬというのは、実は他と比べてけっこう苦痛の少ない死に方なのではないだろうか。死んだことがないのでわからんけれど。どうなんでしょうね。