地震

地震があったときは、お茶の水にいた。妻の通う産婦人科があり、仕事がなかったので同行していた。ホワイトデーのお返しという名目で恐喝され、結婚式を挙げたホテルで昼飯を食べ終わり、手洗いに立った妻を待ちながらぼんやりしていた。揺れ始めてから少し時間が経っても収まらず、辺りを見回しているうちに骨の芯から揺すぶられるようになった。妻は廊下の途中でよれよれになっていた。あと少しタイミングがずれていたら、どうしようもない焦りに見舞われるところであったろう。
しばらくして外に出てみると、近辺の大学やオフィスから大勢の人が避難し、道路沿いの楽器店のギターが余震で落ちそうになりながら揺れていた。電車が停まったことを知った人々がタクシーに乗り込み、その他の自家用車もどんどん増え、あっという間に道路が埋まっていた。我々は見事にそのタイミングを外し、車をつかまえることができなかった。妊婦を伴ってのことだし、早く帰りたかったのだが、早々に諦めざるをえなくなった。結局、ホテルに戻って、ロビーで過ごさせてもらうことにした。
テレビでは東北地方の惨状が映し出されていた。津波というものを、自分は理解していなかったことを知った。テレビから目を離すことができず、外の様子も気になり、何度もホテルの周辺をうろつきまわった。次第にロビーは人で埋まり、地下にあるレストランも開放された。道路では車がまったくと言ってよいほど動いていない。緊急車両も通ることができないほど。とりあえず何か食べるものをと思ってコンビニに入ると、すでにおにぎりや弁当の類はほぼすべて売り切れていた。地震から二時間余りが経過した頃だったように思う。手に入れたのは、冷やし中華を一つとヨーグルト。食べ物と呼ぶことができるのはそれくらいだった。あとはいくらかの飲み物。それなりのホテルのロビーで、コンビニの冷やし中華を妻と分けあう。これだけですでに、自分の想像力の範囲を越える出来事だ。災害を理由にしてdocomoショップが早々に店を閉めていたことには腹が立った。こんなときにこそ開けておくべきなのではないだろうか。文句を言う筋ではないのかもしれないが。
結局、七時くらいまで休み、どうにもならないということで、妻の実家まで歩くことにする。辿り着くべき場所として、お茶の水から最も近かったから。電車が動いていないため、自分たちと同じように、多くの人が北上していた。通りかかる居酒屋で朝まで飲む覚悟の人々も多かった。この翌朝の状態のことを思い起こすと、彼らは後悔する羽目になったことだろう。まさかそうなるとは誰も思うまい。
東大赤門の前でお気楽に写真を撮影する人、次の日のことを心配する人、地図を見る人。電話が繋がらずに不安げな人、ランドセルを背負った小学生の姉弟。様々だった。車はさらに増えて、道を埋め尽くしていた。その道路状況で無意味になってしまった緊急車両はサイレンを消し、自転車で移動する消防隊員を見かけた。非常事態の街の光景と、落ち着いた人々の姿。苛立ちも喧噪もない。
妻の父上が作ってくれたものを食べて、しばらく休むことができた。義父としても、人に料理(と呼んでよいのかどうかは微妙だが、とにかく)を出すのは、生まれてはじめてのことだったらしい。それはそうだろう。まさか義父に葱を刻ませることになろうとは、こちらも想像の範囲外にあった。
テレビをつけていると、三田線南北線と、少しずつ運転が再開されたことを知る。トンネルを徒歩でチェックしているというニュースを聞いていたので、これほど早くどうにかなるとは思っていなかった。生協の宅配の日でもあり、一晩中食品を外に出しておくわけにもいかないと思い、地下鉄で帰ることにした。本数も少なく、混雑の度はすごかった。一度閉じた扉が何度も開き、「いま挟まれた方は次の列車にお乗りください」という放送。これが三度くらい繰り返された後、とうとう「いま一番後方の車両で挟まれた方、次の列車をお待ちください」と言われていた。駅から自宅に向かう途中でも、埼玉方面に向けて歩いている多くの人たちがいた。住宅地に足を踏み入れると、あたりは何事もなかったような静けさ。
非常事態の街中を歩いたせいか、テレビから目を離すことができない。被災したわけではない。東北地方には血縁者もいない。当事者ではないが無関係でもない。それでも、精神的にものすごく疲れる。