つまらない文章

一般教養で哲学の授業をしようとすると、デカルトのような超王道か、あるいは身近な話題に結びつきやすい文章を選ぶことになる。学生に感想を書かせると、前者にはあまり心ひかれることがなく、後者に関しては本当に雄弁になる。しかし、学生が書いた感想のおもしろさという点では、圧倒的に前者のほうがおもしろい。「身近な話題」については本当に凡庸なことしか言わない。端的に言って、退屈すぎで最後まで読みきるのが苦痛なくらいだ。
そもそも、近世の哲学は、現代日本の日常生活に関わりがある事柄は、たぶんほぼ皆無だと思う。経験論だって、経験から理解することはほとんどできない。そうすると、それまで触れたことも考えたこともないことを、無理矢理にでも、はじめて考えることになる。頭かちこちの拒絶反応を見せる学生も少なくないけれど、そうでなければこちらが思いつかないような感想をもつ。
けれども、身近な話題に関しては、もうすでにそれまで生きてきたなかで、ある程度は定まった考え方を身につけてしまっている。そして、誰もがそれについて考えてしまっているせいで、いくつかの型に分類することができてしまう。もちろん、それぞれの型の内実を詳細に論じつくすだけの力があれば、おもしろいことも言うことができるのかもしれない。でも、残念ながら、若くしてそんな能力を発揮できる人はまずいない。
退屈の原因はそれだけではない。おそらく「自己主張」をする文章というのは、おおよそのところ、あまりおもしろいものではないのだと思う。「俺の考え」をダダ漏れにすると、つまらない文章に必要なすべての条件が吸い寄せられるような気がする。あんまりうまく説明できないけれど。さっき岩波のPR紙『図書』で高橋源一郎加藤典洋の対談を読んで、なんとなくそう思った。