凡庸なまともさ

鈍い頭を使い、ない智恵を捻り出し、時間に追い立てられながら論文を書いていたら、疲弊してしまった。どう言ったらよいのか、気分がすぐれない。研究をする喜びを少しも感じられない。同じような主題を考え続けて、堂々めぐりをしているような状態になってきた。困ったことだ。日々のすべてのことがわずらわしくなって、表情も固くなってくる。12月の提出を目標にしてきたけれど、ほとんど無理であることがわかってきたし、かと言って来年に延ばす決心がつくわけでもない。非常に悪い状態である。
日常の細々としたことにある程度は心を傾け、静かに読み、書く。それが理想だったはずだし、実現することが無理な状況でもない。にもかかわらず、それができない。穏健な私生活主義者として、まともな生活を望んでいたはずだった。「ふつうの」雇われの身になって働いていては、「まともな」生活をすることはできない。生きていくために一日の大半を外で過ごし、家はただ寝るためだけの場所。いまの「ふつう」は「まとも」ではない。だから(そして?)、まともでいるために、わざわざ先の見えない研究生活を送っているはずだった。
イデオロギー、真理、想像力、権力といった主題や、精神病理学について少しは学んだのも、「まとも」でいるためなのだと思う。「まとも」ではない「ふつう」を避けるために「批判」が必要なのだとも思う。その意味では「まとも」であることと「創造的」であることは、近い関係にある。論文を書くための諸々の作業は、そういったことを実現するための数少ない手段だろう。
しかし、「まとも」と「創造的」が近い関係にあるとしても、それらはもちろん同義ではない。「まとも」であると、「ふつう」ではないかもしれないけれど、きわめて凡庸になってしまう。物事を考えていくと、その過程でどれだけのことがあったとしても、最終的には考えるまでもなかったような凡庸な言葉が生まれてくる。「ふつう」を避けて何かを考えることで、創造的でありたいという願望を捨てることは難しい。しかし、たいては「まとも」ではあっても、それは凡庸なものでしかない。
いまの状況はこんなかんじだ。自分の凡庸さにうんざりし、創造的でありたいという願望をもちながらそれができない。単なる学術論文なのだから創造的であることなど求められていないというのはそのとおりなのだろう。ただの妄想である。しかし凡庸な論文に価値があるだろうか。まともで凡庸であることは、個人的には本当に大切なことではあるけれども、他者にその凡庸な思考を差し出すことにはあまり意義がないような気がする。創造的な凡庸? そんなものもあるかもしれない。わからない。
もちろん、ただただ論文の完成度が低いだけ、ということもある。悲しいことだ。