すべてを雑事にしないために

結局、論文の提出は来年度に延ばすことにした。意外に早い決断だ。冷静に考えてみて、無理だと思った。そのせいで昨晩はほんの少し眠れなくなったりもしたけれど、そう決めてしまえばずいぶんと気が楽になった。考えてみれば、来年の三月まではバイトをする必要もなく、研究に専念することができるのだから、それまでに第一稿を仕上げるという気でいたほうが、はるかに質の良いものが書けそうな気がする。急いで完成させることもとても大事なことだとは思うけれど、長い論文を書く機会というのはこれから先もしかしたらないかもしれないし、あまりにひどいものを仕上げると、その可能性がますます低くなる。ここは堪えどころなのだろう。博士課程三年間で論文を仕上げて修了、という目論見は諦めるしかない。
そんなわけで、今日は本屋に行って、アーレントの『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』を買ってきた。時間がなくてアーレントについて盛り込むのを諦めていたのだけれど、半年あれば何とかなるかもしれないと思い、買わずにおいたものだ。自分なりに現代政治哲学の思想的な流れをおぼろげに把握しはじめたところなので、少し勉強することにしてみたい。論文を書きながら憂鬱な気分になっていた原因のひとつは、本当は勉強したいことがあるのに、論文を仕上げるために過度に禁欲的になっていたことにあると思う。これをやりたいのにあれをやらなければならない、というのは辛い状況だ。飽きっぽい性格は研究者には向かないのかもしれない。しかしそれは仕方がない。折り合いをつける地点の見極めが必要だ。
帰りに西武百貨店の地下でおでんの具材を買う。寒くなってきて、鍋ものに強い情熱と執着を示す同居人が、久しぶりに気合いを入れて作ってくれることになった。大根や卵に味をつけるという気の長い作業をしておいてくれるということなので、揚げ物を買う。ぜいたくをして、値段を考えずに注文しまくる。ライオンズの優勝セールと日曜日が重なって人が多く、頭がぼんやりしてしまった。
雨が降り始めたので自転車を全力で漕いで、何とか濡れずに帰ってくる。直径30センチの巨大な土鍋に具材を入れて、空腹で手を震わせながら待った。これだけの大きさの鍋に入りきらず、別の鍋も出す。家族が増えたりしたら、我々はいったいどうするのだろう。
時間をかけて作った料理を食べるのは久しぶりだ。いや、作ったのは私ではない。近ごろは追い立てられるような気分で、魚を焼いて食べるばかりだった。味もよいし、栄養のバランスも考えていたけれど、ただそれだけだった。作る喜びも、食べる喜びも、ほとんどなかった。心に余裕がなく、体調も崩していた。追い詰められると、家事も雑事になる。単なるやっつけ仕事になって、そうすると本業であるはずの研究も、ただの雑事になる。悪循環だった。何か別のことが本業だから家事が雑事になる、というのを避けたかったのに、生きていること自体が雑事になるような様子だった。大切なのは、一定のペースで走り続けることだ。怠けず、急がず。そのバランスが難しい。
そんなわけで、週に二回くらいは気合いの入ったものを作ることで、自分の状態を保つようにしようと思う。