動物園と禿げ頭

天気のよい日が続いた。よく晴れて空が青いような日は、睡眠時間が多少短かろうが、昼くらいまで惰眠を貪ろうが、目が覚めたらすぐに活動に移ることができる。どんよりとした日は逆に、午前中どころか一日中目が覚めずに終わってしまうことが多い。いまみたいに消沈した気分がなおらないときでも、きれいに晴れて空気が澄んでさえいれば、それだけで楽しく過ごすことができる。

そんなわけで先日は、ひとりで上野動物園まで行ってきた。通ったことをない道を、意地になってまっすぐに漕ぎつづけていたら、最後は人がすれ違うこともできないような路地に入りこんで、動物園の敷地にぶつかった。自転車はよい。入場料は600円。正面から入ると、若い男が昼間から、という言葉が頭に響いてこそこそしてしまうのが、今回は東大側の裏口のような場所から入った。こちらから入場するのははじめてだが、いちばんの目当てであるカバ舎にも近く、警備員のおっさんに見られるだけなので、気楽だった。

私にとって過ごしやすい天気の日は、ほかの動物たちにもよい日らしく、特に午前中から昼ごろにかけては、檻の中の動物としては元気に暮らしている。不覚にも、何度かひとりで小さく歓声をあげてしまう。誰かがとなりにいたら、まちがいなく自分が何に注目しているのかを詳しく語ってしまっただろう。後で誰かに話すこともできない。変な顔をされるだけだ。動物園が好きだという友人を、私はもっていない。しかし、まさか水中で眠るカバの呼吸について、あるいはサルたちの股ぐらにまで及ぶノミとり合戦について語り合うわけにもいかないだろう。

昼食はゾウ舎の前でパン。途中、近所で買ったものだ。有名どころの動物の前にしばらくいると、その動物よりも人間の子供のほうがはるかにおもしろい。なんでそんなところにこだわって、さとされて、泣き叫ぶのか。不思議な生き物である。幼稚園や小学校の遠足とも重なっていて、それはもう大変だった。休日は親子連れが多いが、平日の動物園はこんなかんじである。写生の宿題が出ている学校もあったが、描き方の個性があっておもしろい。技法よりも、堂々と見せたり、隣の友達の絵をちらちら見ていたり、恥ずかしそうに見えないようにしていたり。性格がよく表れている。私は真剣になりすぎていて、周りも見なければ、見られていることにも気づかない子供だったような気がする。

その他にも、電動車いすに乗って一人で動物を見ているおじさん(好みが似ているのか順路が同じだったのか、何度も遭遇した)、レズビアンカップル、会社の研修らしき若い人々、付き合い始めたばかりのカップルなどがいた。なぜだか、みんな街で見るよりも、風景からくっきりと浮かんでいるように見えた。

その後で大学へ。たまたま学部のときの同級生に遭遇。やせていた。うら若きころは、むちっと肉感的な美人というかんじだったのに、本当に骨と皮だけと言いたくなる様子だった。いろいろ大変なのだろう。なんとなく直視できなかった。前にもこんな感情になったことがある。中学校の同級生に五年ぶりくらいに会ったらすっかり禿げ上がっていたのである。まだ20代の前半のことだった。それについて触れることができず、相手がどこか別のところを見ているときに、ちらちらと観察するばかりだった。禿げることについてはいつも真剣に考えてきたが、まさかこんなところで出会うとは、としばし絶句した。その後で合流した別の友人と「知ってたか?」「いや知らなかった」という会話をしたことも覚えている。

何が言いたいのかというと、女性の変貌はしばしば憐みを誘うが、男の場合は笑いを誘うということである。生きることは実に苦しい。