小説を読んだ

ずいぶん久しぶりに何冊かの小説を読んでいる。近ごろは時間がなくて、めっきり読む量が減ってしまっていた。かつては、一日のうちで小説を読まない日はないというくらいの中毒症状だったというのに、気がついたら漫画の立ち読みの頻度もずいぶん減ってしまっていた。漫画に関しては、たとえば『上京アフロ田中』のようなストーリー性の低い、いつ読んでも同じような話を繰り返しているものを好むので、特にどうということはないけれど。
今朝読み終えたのは、大江健三郎『静かな生活』。よい題名ですね。簡潔であるのに、実に多くのイメージを喚起する言葉だと思う。はじめて手にしたときはいったい何を感じたのか、もちろんいまでは覚えていない。何も考えなかったのかもしれない。実際、中身もほとんど覚えていなかった。途中までしか読んでいなかったような気もするのだが、最後の話にまでところどころ読んだことのある場面が出てくる(この作品は連作短編です)。血気盛んな若者に適した種類の本ではない。やはり、書き手の年齢というのは書かれたものに大いに反映するものらしい。その点、若いころから一貫して変わらない村上春樹のような人は、より虚構性の強いものを書いているということなのかもしれない。自分で作り出した世界に引きずられるようにして新しい虚構を作る。以前と同じことが同じように書かれているように感じられてしまうのは、虚構世界の完結性が強く、閉じられているからかもしれない。作品が痩せてきたような気がするのは、そのせいだろうか。それに対して大江健三郎は、現実を虚構化するという側面が強く、その分だけ書き手の変化が作品に強く現れるのだろうか。
まあ、こんなことはどうでもいい。印象に残ったのは、自分は「なんでもない人」として生きてきたし、これからもそのようにして生きていくであろうし、別の「なんでもない人」に関わっていくだろう、といった内容の初老の女性の言葉である。いいですね。そして語り手は、障害をもった兄を、「なんでもない人」として受け止めようとする。これはなかなか困難なことだと思う。しかし『静かな生活』という題名それ自体が、小説の中では、この障害をもった人物による提案なのである。
大江健三郎に加担するようにして言えば、「社会」に出ることができないことによって確保されるのが、「静かな生活」であり、「なんでもない人」として生きるということなのかもしれない。もちろん、高名な作家の息子で、経済力があり、支えてくれる人がいる、といった条件がついて可能になることではあるのだけれど。しかし逆に、周囲の人間が「なんでもない人」として「静かな生活」を送るためには、彼のような人間が必要であることも確かなのである。「何」(属性)ではなく「誰」として現れることができるのは、むしろ彼のような人間であるのかもしれない。それによって排斥されることも、実に多いのだろうが。しかし属する場所があり、承認を与える人間がいれば、それも決定的な形では苦難に転じることはないのだろう。
我々の困難は、彼とちょうど逆転したものなのかもしれない。