大人の楽しみ

今年の四月から大学に喫煙所が設置されて、そこでしか煙草を吸うことができなくなった。何の制限もなかったこれまでがおかしな話で、それ自体は何の異存もない。しかし屋根もなく雨ざらしで、くつろげる空間ではない。ひどい話だ。一か所にまとめればそれだけ多くの煙が集中する。だからあまり非喫煙者が頻繁に通る場所に作ることはできなかったのかもしれない。しかしこれだけ広い空間があるのだから、もう少しやりようがあるだろう。別に喫煙者を排除している、と非難しているのではない。マナーを知らない阿呆なガキどもとオッサンどものやったことが、こうやって喫煙者一般への偏見を作り出したのだと言いたいのである。灰皿はゴミを捨てる場所ではない。吸いがらはあたりかまわず捨ててよいものではない。単なる個人的な楽しみなのに、でかい顔をしてのさばって、最低限の配慮も美意識ももたない人間が多かったためにこうなった。煙草は、ひっそりと静かに、小さな個人的なものとして楽しむべきものだ。年齢に関係なく、「大人」のためだけのものだと思う。
そう、個人的な楽しみであるべきなのだ。喧伝されるほどではないにしても病になるリスクがあるのだとしたら、それを引き受ければよい。治療のしようはない。しかし苦しみを小さくするための薬を処方されるくらいのことは許されるだろう。痴呆状態になって生き続けるよりは、そうなる前に死んでしったほうがよいと考えることは、非難されるべき意見ではない。いずれは死ぬわけだし、そのわずかな兆候が、というよりは、老化の兆しが見えた時点で、誰もが「病気」とされ「治療」の対象になるわけだから、社会保障と結びつけるのもほとんど馬鹿げた行いである。病名をつけられずに死ぬことができる幸運など、めったにない。そうだとしたら、喫煙者が「病気」になったとして、その他の人々と同じように「治療」を受けることでさえも、許されてしかるべきだろう。
煙草を吸うための場所を作ることも許されてよい。狭い飲食店で大人数が煙草を吸えば、口にする物の味や香りが損なわれるし、快適に過ごすことができないというのは、喫煙者も同様である。そうであるならば、換気の設備にもっと金をかければよい。煙草には大量の税金がかけられている。なぜそれを利用してはならないのか。禁煙政策を推し進めようとして感情的で無意味な言葉が飛び交うような似非言論空間を立ち上げるよりもはるかに生産的である。煙草税を払っているのは喫煙者だけである。
繰り返すが、喫煙は徹底して個人的な楽しみとすべきである。医療費、社会保障と絡めて値上げを云々など、何の合理性もない。そのためには、愚かな喫煙者を叩き潰していくしかない。