サイクリングをした

今日は天気がよかったのでとても短いサイクリングをした。出発してから早速、隅田川の川岸のよく整備された場所で、近所のパン屋で買っておいた昼食をとった。家を出たときにはすでに空腹だったので、出発するときにはもうそのあたりで食べることは決まっていたのである。家からさほど遠くはないものの、ふだん生活する空間とは逆の方向にあるので、そこに行ったのは始めてのことだった。どぶと区別のつかないような黒い水の流れとは異なった大きな川を目の前にするのも久しぶりのことだ。背後には巨大な団地、目の前には川と高速道路、岸ではおっさんが竿を三本同時にセットして釣りをしていた。パンを食べながら見ていると、おっさんからいちばん離れた竿に魚がかかり、走っていってリールを巻き上げているが、漫画さながらに逃げられて悔しがっていた。堤防の高みから見ていた私はひどく傲慢な気がして反省した。
二本の交叉する高速道路のせいで川音はほとんど聞こえず、ときおり背後で干していた布団をたたく音や、目の前を平たい船が通りすぎるエンジンの音がした。カーブが急なせいか、そこに停留した船が黄色い旗を振っていた。
背後の団地がまた不思議な空間で、そこはまるで孤島のように周囲から切り離された独特の街ができあがっていた。ショッピングモールと名づけられた商店の集まりがあり、乳母車を押した母親がいて、年老いた人々もそれぞれベンチに座ってくつろいでいた。緑も多いし建物が障壁になって高速道路を通る車の音もあまり聞こえてこない。建物が古くて車が通らず、にもかかわらず小さな駅のような雰囲気でもあったような気がする。ほかにはない、としか言いようがない。古くて明るい、そして外側を見ることがほとんできないというのが、独特な雰囲気を作っていたのだろうか。その外側に目を向けてみても、川べりに位置するせいで、駅に向かう方角には何となく気持ちも向きやすいけれど、反対側の川向うとははっきりと断絶されているような印象を受けた。これはもしかしたら大きな川の周囲では常に感じることかもしれない。利根川下流域の千葉県側を自転車でさまよっていたときも、茨城県に渡ってみようとは思わなかった。片側が存在しない、という世界で生きるというのはどんな気分なのだろう。そんなおおげさなことではないだろうが、住んでみたことのない空間の配置で生きるというのは、いつもどうしても想像がつかない。
そこから荒川まで行って、川をのぼって赤羽あたりから街中に入って南下する。川べりはよい。小さな史料館もあって、荒川の歴史についても勉強したくなった。街に入ると、十条あたりから道幅がせまくなり、建物もみすぼらしくなり、とても暗い街という印象を受ける。商店も目に入らなければ、狭くて交通量の多い道路のせいか人の姿も極端に少ない。京浜東北線埼京線に挟まれた場所である。線路に挟まれた地域というのは、こういった場所が多いのだろうか。それとも、街ができあがるまでの歴史的経緯があるのだろうか。今度は他の挟まれ地域にも行ってみることにしよう。幸いなことに、近所にはそれに街頭する孤島のような地域が他にもある。
子供のころから地図を眺めるのが好きで、じっくりと何度も見返した場所に行くことに喜びを感じるというのは、どのような心性なのだろう。ただの絵や模様にすぎず、そこにどのような風景が広がっているのかまったく知らなかったにもかかわらず、同時にすでに深く知っていたかのような感覚があるのかもしれない。何はともあれ、天気がよく風が強くなく車が少なければ自転車に乗るのは気持ちがいい。荒川は最適だった。しかしずっと体の左半分にだけ強烈な日差しがあったので、半分だけ日焼けしてしまったかもしれない。