若者による老いの定点観測

数年前に撮った証明写真を何種類かひっぱりだした。街中にある500円くらいで六枚つづりの写真が出てくるあれである。カーテンを閉めるときがなぜか道行く人の視線が気になる。一枚も使用していないのが何種類かあるのは、髪を切るのが嫌いで必要なときにはくるくるにのびて冴えない仕上がりになってしまうため、数ヶ月に一度の散髪の直後にすぐそばの証明写真の機械で撮影するのを習慣にしていたからである。学生時代にはいろいろなバイトをしたり大学に提出する書類に必要だったりで、何枚か撮りためておくと便利だったのである。もしかしたら定点観測のようなつもりもあったかもしれない。とはいっても、いまやそれぞれが撮影されたのがいつのことなのか、まったくわからなくなってしまったのだから、その用は満たさないことになっていまったわけだ。
写真を見ていて思ったのは、自分も少しずつ確実に老いてきているのだということである。ふだんはあまり意識しないし、数年前に小学校のときの同級生からお前は子供のころから老けていたと言われたこともあったのだが、それでも時間の経過と共に自分が老いてきているというのは発見だった。老けているというのと老いてきたというのとでは、あたりまえではあるけれど、認識として根本的に異なっている。具体的にどこがと聞かれても全体的にとしか応えようがないくらいのものではあるが、それでも輪郭が変わってきている。だからどうしたという発見である。
女性のほうがこんなことには敏感だろう。毎日ていねいに鏡を凝視していれば、皺の刻まれ方が深くなっていくことには嫌でも気づかされる。もしかしたらそれを糊塗する作業に熱心になるあまり、それを「なかったこと」にすることに長けていく人もいるのかもしれないけれど。
しかし、それでも老いというのは事後的に「老いた」としか認識されないことかもしれない。もちろん皺やたるみのようには目に見ることはできず、感じ取ることも難しい。だからいくら皺を凝視したところで気づかれることはない。たとえば疲れを感じるということは、忙しく働いていれば誰にだって起こることである。忙しい日々が続けば、疲れがなくなることもない。年かしらと言っても、まだ若いんだからと言われれば、そういうものかとも思う。しかしある日、気がついてみれば平穏な日にも体の重さが感じられてしまうこともあるだろう。その疲れが老いの兆候だったということは、おそらく事後的にしか認識されない…。
まあ、そうなんじゃないか、というだけだ。まだ20代なのでわかりません。それよりも、頭髪の定点観測を始めたほうがよいだろう。