方向転換の時期かもしれない

某研究員に落ちた。この時期に多くの大学院生たちが一喜一憂する、あれである。今年からネット上で見られるようになったおかげで、郵便屋さんを待ちわびるという作業がなくなったのはよかった。
驚くべきは、人文学の分野の全体で半分以下の順位で、おまけに五段階評価でも半分に達さなかったということである。目を疑った。そんな阿呆な。何かの間違いではなかろうか。年齢から考えて限界と言えるくらいの業績しかなかったという点は確かだが、ここまで低い評価しか与えられないとは考えていなかった。これまでの業績、今後の研究計画については、自分としては気分が高揚するくらいの出来栄えだったつもりだ。もちろん、これから何をするかを考えるのが研究するなかで最も楽しい過程なのだから、これは当然である。そうでなければ研究者を目指すうえで致命的と言える。しかし結局はそのような上のような評価しか与えられなかったわけで、自分の独りよがりでしかなかったわけだ。自信を喪失してしまった…。
という考えに至ってもおかしくはないのだが、実際にはそうではなかった。驚きはしたが、結果に対して落胆もしなければ、不当であると怒りを覚えることもなく、「あらそう」という受け止め方だった。自分でも意外なことである。逆にすっきりした。その要因はいくつかある。まずは、来年度の収入を確保できていること(先輩に足を向けて眠ることは二度とないだろう)。次に純粋に研究を楽しめる環境になったこと(これまでは収入を確保するために、要するに金のために業績を作ることに邁進して、諸々の「作業」のために鬱状態になりかけていた)。最後に、初心に帰ったこと。これは少し説明が必要かもしれない(誰に説明しなくてはならないというわけではないけれど)。
自分にとって研究者を目指すというのは、最初は「二番目の選択肢」だった。恥ずかしながらその昔、私は小説家になりたかったんですな。いや、本当に恥ずかしい。まあ、それは無理にしても何か考えたり書いたりする仕事をしたいなあと夢想していた。しかしそれでは飢え死にをしてしまう。だったら大学の教師にでもなればいいではないか、と。きわめて安易である。当時は大学教師もダメなら予備校でもいいと考えていたけれど、そちらを楽しむ才覚がないことはここ数年で痛感したし、大学同様かそれ以上の苦境に立たされている業界に、いまからわざわざ飛び込む気もなくなった。そういうわけで、研究者というよりも、大学での職を獲得するために努力をしていた。
しかし、実は自分には大学教師になる適性も欠けているということには、最初から気づいていた。何と言うか、いろいろな暗黙の作法や規則がある。なぜ「日本人」が、神学的・形而上学的・超越論的な問題構成で物事を考えなければならないのか、私にはさっぱりわからない。そして、私がそれらに無関係であるならば、それらを批判する動機があろうはずもない。そもそもそれらに対する感度がなければ、優秀であろうが無能であろうが、単に無縁であるというだけのことである。早い話が、ただただ「西欧の」哲学をやっていくことは、私には不可能であるということは自明のことだったのである。
もちろん、自分の思考を、伝統に従って矯正することは本当に大切なことである。実際に自分がやってきたことも、それ以外のことではない。しかし、私にとって必要だった矯正は、学術論文に書くためのものとは異なるということもわかってきた。身近な人との会話や読まれるべき価値のある書物や、そういったものからしかもたらされることはない。そうであるならば、なぜこんな無駄な労力を費やさなければならないのか。特定のサークルの中では優秀とされるのかもしれないが、見ていて呆れる機会のほうが遙かに多い。そこに同化しようとする努力をしても、嫌悪感が先立つのを抑えることができず、結局はいまの状態にいるわけだ。
そんなわけで、いまはここ数年で最も明るい気持ちで、そして自分の為すべき仕事に対して希望を持ち始めている。職業は大学とは別のところに探す可能性が高くなった。いままでも迷っていた。これからも迷う。しかし執着はないし、そもそもこの業界に就職することは不可能に近いか、本当に無駄な努力の末にしか実現しない。私にとってはそれだけの価値はたぶんない。死ぬまでに一冊の本くらいは残したいという希望はある。しかし、どのような職業に就いてもそれは可能だろうし、それ以上をやることができる人は本当に限られている。慎ましさという徳を身につけることも、おそらく必要だ。そして、「職業」が必要だ。
しかし、まさか落ちてこんなことを考えるようになるとは思いもしなかった。不思議なものである。