膨らむ妄想

論文を書く過程で最も楽しいのは、実際に書いているときではなく、妄想を膨らませているときである。構想ではない。妄想である。きちんとした骨組みをもたず、散発的な思いつきをもとに、とてもおもしろい内容のものが仕上がるような気がしてくるのである。文献を読んでいるときに頭の中がカチッと鳴って、それまで考えてもいなかったようなことを思いつく。もちろん自分の頭はそんなに都合よくできていないので、おそらくは頭が凝り固まって盲点になっていた部分が、何かの拍子に見えるようになったというだけのことだと思う。要するに、頭の中にあったものを引っ張り出すのである。無理矢理にやるよりも、別の視点を導入するために、ほんの少しだけ関連のありそうなものを読んでいるときによく起こるような気がする。その後ですぐに書き始めるのではなく、単語を書くだけのメモを残し、自転車に乗り料理をし、その間を楽しい気分で過ごすのである。
そんなかんじで調子がいいときには、私は調子に乗る。大いに調子に乗るのである。自分が天才的な頭脳をもっているというおめでたい妄想にも取り憑かれる。まことに幸福なやつである。家事も気分よく進む。非常に「いいやつ」になる。逆に、家のことをやるような時間すらないように感じられてしまうのは、実際のところにっちもさっちもいかなくなって何もできなくなっているときである。何もする時間がないというよりは、実際には何もしていない時間ばかりになるのである。何もしていないのに何もできない。忙しい気分で何もできない。これがいわゆるスランプである。本当にしばしば起こる。何をやってもうまくいかずに疲れる。要するに、妄想しながら調子に乗っているときが、研究生活の醍醐味である。
しかし、この「調子に乗っている」という状態は、外側から見ると気に障るらしい。私の場合は、「自分はもしかしたら天才なのではなかろうか」と本気で疑ってしまう。で、実際に口に出してみるわけだ。相手は同居人。彼女はそのような言葉だけではなく、調子に乗って機嫌のよい私を見ると不快感を覚えるらしい。それでいちいち気に障ることを口にする。逆に苦しんでいるときにはたいそう嬉しそうな顔をする。そういうのがあなたには必要なのよ、とわざわざ宣う。やかましい。言わんでいいことを言いおって。
調子に乗っている人間の上手な利用法というのは、どこまでもおだてることではなかろうか、と思う。料理も洗濯も楽しくやってさしあげますよ。不快感というのは人間を操るうえで邪魔になる。豚もおだてれば木に登るらしいです。