読んでみた

指導教授が10年ほど前に書いた文章を読んだ。論文としてはいささか長く、単著にするには短すぎる、といったものだ。私は彼にとって忠実な弟子ではなく、書いたものを読んだことはほとんどない。互いの関心が遠いように思われていたから読んでも自分の研究にはさほど役立つとは思っていなかったし、その独特の文体を読み通すにはかなりの根気が必要である。それなのに手にとったのは、たまたま自分に課題として与えられていた主題に、少々関係のありそうなことを書いていそうだったからだ。
確かに関心の内容に関しては、私と彼との間では大きく異なる。というよりは、彼がいつも省いてしまうものについて、私は考えを巡らせているということなのだと思う。しかし文章を読んでみて驚いたのは、私の発想の骨格が彼のそれとそっくりだということである。私は彼から何らかの教えを受けたということはない。おまけに、彼の言っていることの意味が数年間はさっぱりわからなかった。演習の時間でも、彼が勢いよく放っている言葉は私の耳を素通りし、私はただ外国語で書かれた莫大な本の背表紙を眺めていたりもした。現在では明確に理解することができる。それは、私にとって理解を絶する言葉を、何とか理解しようとしてきた数年間の結果なのだと思う。
もう一度言うが、何らかの教えを受けたという覚えはない。彼にしてもそのような意識は皆無だろう。しかし、ある種の思考の形は、数式によって表現しえないような種類のものであったとしても、他の人間にとってもそれ以外ではありえないものとして受け取られることがある。私はそれを理解すると同時に身につけたのだと思う。語られる具体的な内容は、私と彼とで重なることはあまり多くはない。それでも、問うている事柄はそれほど遠いものではない。
伝染や模倣というのではない。私はほとんど独力で物事を考えてきた(と自分では思い込んでいる)。だから、上で書いたことはすべて勘違いなのかもしれない。関心の重なりが皆無に近いように思えるし、実際に他人にそのように尋ねられたこともあるのだが、それでも彼が私を認めてくれているというのは、もしかしたら、偶然似通った発想を身につけてしまったというだけのことなのかもしれない。哲学的な思考は、もしかしたら、結局のところ誰もを似たような発想へと導くものであるのかもしれない。普遍的ではないにしても、個別性ではなく、ある種の一般的な形式を見出す作業として規定されるのかもしれない。
いずれにせよ、教えられるではなく学ぶことのできる師がいるというのは、恵まれたことだと思う。