機会原因論

この前、現代文の授業の折りに、「子供を作る」という表現には何となく違和感がある、「子供ができる」と言ったほうが実感に即しているような気がするという話をした。前者は、何か別の人格をもった別の個体が誕生するということを忘れていて、一人の人間を所有物のように思い為すような言葉であるように感じられるからだ。いったいどんな授業をしているのだろう。確か生の根源的な受動性が、という種類の文章を解説していたのだと思う。おもしろかったのは、一人の女子生徒が、「作る」という表現に気持ち悪さを感じると言っていたことだ。もう少し突っ込んでみたらおもしろい話にもなったのかもしれないけれど、教室という場所の制約上、そうもいかなかった。女性と出産という話題は、身体感覚と社会環境が交叉するところで成り立つものだから、何を考えているのかというところを少し聞いてみたい。とりあえず言っておきたいのは、だからといって安易にできちゃった婚はしないほうがいいのではなかろうか、ということだ。
さて、哲学史を勉強していると、実感を伴った理解の及ばない事柄が多々あることに気づく。もちろん、実感を伴ってしまってよいのかどうかわからない種類の経験も多いのは確かだけれど。それだけに、講義で学生に解説をしていても、そのような事柄などけっして理解したくないという、強い拒絶の態度に出会うことがある。ほとんど狂気の世界ですからね。自分の説明能力の不足を脇によけておけば、拒絶の態度も致し方ないのかもしれない。しかしその中でも自分にとって最も摩訶不思議だったのは、マルブランシュの「機会原因論」の概念だ。いまもってどのようなものなのか、自分には明確に説明することができないし、講義で取り上げることも生涯ないとは思う。ただ、妻が妊娠したことで、何となく感覚的に理解できるようになった気がする。つまり、性交と妊娠の間の関係は機会原因論的である、ということだ。それは因果的なものとしては理解することができない。しかし性交なくして妊娠はない。だが、我々とは別の個体を、我々が制作したわけではない……。
そんなこんなで、摩訶不思議な概念も、実は生活実感の中から生まれたのではなかろうかと、妄想したわけです。自分にはどうやら研究者としての才能が欠けているようだ。