引用集

ワードファイルにして100頁を超えるF氏の引用集を、2年前くらいに作成していたことに、今日気づいた。引用を集めたことがあるという事実は覚えていて、講義で使えないかと思って開いてみたら、それだけの分量になっていた。博士論文を書くときには一度も使用していない。
やはりかなり抑圧していたようだ。自分がおもしろいと思ったかどうかではなく、F氏の思考の骨格を再現することだけを考えていたために、引用は可能なかぎり「著作」に限定し、「論文」「対談」「インタヴュー」を除外していった。変な禁欲かもしれないが、著作にならなかった思いつきに対して、主観的な読み込みによって過度の重要性を与えることを避けようとした。
今日になって読み返してみて、やっぱりおもしろい。著作で「研究者」の顔を見せるのに対して、その他では「知識人」の顔をしている。理論的な重要性が前者にあるのは当然だが、読んでおもしろいのは、当然のことながら後者だ。そんなわけで書籍化を目論むときには、もう少し知識人的な側面も盛り込んで、理論的な探究との交錯も描けるようにしたい。
しかし論文を書くときの禁欲によって得たものは実に大きい。無駄を削ぎ落として匿名性を得るつもりでなければ、ただの自己満足に終わることもよくわかった。研究の方法も得たし、逆に、そこには収まらない自分の特性も理解できた。自分のアイデンティティは「研究者」ではない。しかし研究以上の訓練は他にない。それが軸になければおそらく何もできない。いまは講義の準備をメインにしているが(なにしろはじめてだから)、実際に講義をする前にすでに楽しい気分になっている。大教室とはいえ、とりあえず、研究としてではない仕方で哲学に関わる。よい。
何度も読み返した本を、あらためて新鮮な気分で読み返すことができる。