あたたかいわが子の体が切り開かれ、そこからまだ動いている心臓が摘出される光景を、人は直視できるのだろうか

臓器移植法の改正法案が衆議院を通過した。おそらくこのまま参議院でも可決されることになるのだと思う。しかしそれについて嘆いても致し方ない。これからは、遺されることになるであろう人々の判断と意志にすべてがかかることになる。法律で脳死が人の死と定められたわけではない。脳の機能が停止したと判定された家族の臓器を移植医療に提供すると同意することによってのみ、自分ではなく、自分の家族が死んだと見なされ、同時に、家族が死んだと見なすのである。それは「同意」などではなく、家族の意志でそのものである。
15歳未満の子供(この年齢は、本当に文字どおり子供である)の臓器医療への道も開けたわけだ。だが、自分の子供を臓器提供者とするということを、どれだけの人が認めることができるのだろうか。脳死者から臓器が摘出される映像を、私は見たことがある。別に珍しいことではない。かつてNHKで放映されていたものである。彼らは人工呼吸器を装着しているとはいえ、切り開かれた体の中にあるその心臓は、のたうちまわっていた。それはおそらく脳死者には限らないのだろうか、まさに開口部からこぼれんばかりに生きがいいのである。それを見て、「死んでいる」と判断できる人はおそらくあまり多くない。
私は、もしわが子を臓器提供者とすることに同意するのならば、その臓器が摘出される様を、きちんと最後まで見届けるべきだと思う。それは愛する者に対する最低限の責任だろう。親の精神的負担が大きすぎる? ならば辛くなるような光景を見ない限りにおいて、その行為が可能になるということなのか? 自分の行っていることを認識せずに、自分のわが子に何が起きているのか知ることを放棄することで、いったい何をしようとしているというのだろうか。それで臓器移植へのハードルが高まる? それだけ厳粛なものであるべきではないだろうか。まやかしがなければ成り立たないような行いであるのならば、それが成り立ってしまうことをゆるすべきではないだろう。
これは何もわが子に限ったことではない。親だろうが兄弟だろうが、同じことだ。何が起こっているのかを自分の目で見ろ。それができないのなら、せめて想像しろ。それすらできないのなら、そのようなことをするべきではない。