翻訳

今日は邦訳でハイデガーを読んで憤死しそうになった。あまりにもまわりくどくて、持ってまわった語り方で、貧乏ゆすりが止まらないくらいに苛立った。いやあ、ひどい。ドイツ語で読んでも同じなのかしら。ドイツ語は読めないのでそのあたりはわからないけれど。しかし不思議だ。誰でも最初は邦訳で哲学書を読むはずだけれど、邦訳で読んだハイデガーを専門的に研究しようと思う人がいるというのは、本当に驚くべきことなのではないだろうか。忍耐力のせいなのか、本当におもしろいからなのか、持ってまわった語り方というのは深遠に思えるからなのか…。よくわからない。1頁につき3行で要約することができるような気がしてしまうのは、私が浅薄だからだろうか。
忍耐力という要因は大きいだろう。というのも、原典の邦訳を読み始めるよりもさらに前に、いくらかは入門書を読むということがあるはずで、そこにどれだけ偉大な哲学者であるかということが熱く語られていれば、そして実直な心持ちがいくらかでもあれば、我慢してでも読み進めるのだろう。自分の場合もそうだったような気がする。ひどい翻訳で読んで、よく聞く評判との落差に驚いて、実際に原語で読んでみて。まあ、原語で読んだからといってその偉大さが理解できたとは言えないけれど。いまでも外国語が暗号解読のように思えてしまうし、フランス語を日常的に使用している人々が地球上に数多くいるということが信じられないような気になってしまう。ある程度は慣れたけれど、そんな感覚が消えない。
そう考えてみると、入門書というものがいかに偉大なことか。しかしそれでも、よい翻訳が必要であることは言うまでもない。何というか、グッとくるような日本語で訳されている本があれば、それだけでもその思想家について深く知りたくなるだろう。単に難しくて深遠なことを言っていそうな気がするというのではなくて、悪い意味ではなく、最初の一歩で心酔することができるような気がする。たとえばメルロ=ポンティや熊野訳のレヴィナスなんかはそういった種類の翻訳かもしれない。しかし、全体として、そういった種類の翻訳は多くない。
自分でやれよと言われそうだけれど、それは無理。外国の思想家について知ろうと思う最初の動機は何なのだろう。自分に関しては、ほとんど忘れてしまった。それが外国の思想家だということすら、意識していなかったのだろうか。