声、声、声…

へっぽこ現代文講師を再開して数週間が経った。以前よりは余裕をもって授業をすることができるようになったので、いろいろと試している。50〜80人ほどを相手に比較的大きな教室で授業をしているので、生徒の顔を覚えることはほとんど不可能に近い。何人かは授業中にずっとこちらを見ているので、思わずそちらのほうに目がいってしまう。それが女子生徒だったりすると、見てはいけないような気がして、よくわからない検閲意識のようなものがはたらく。私は何か後ろめたい人生でも送ってきたのだろうか。
いま最も気をつかっているのは声の出し方。まずはこちらの体の都合がある。あまり頑丈ではないうえに煙草を吸うというのに、声を張り上げてしまう癖がある。給料をもらって生徒を合格させることが仕事なので、どうしてもそうなる。喉を痛めないような発声を心がける必要がある。そして何より、生徒のことを考えると、声の出し方は授業をするうえで最も重要な要素のひとつかもしれない。いまのように大人数を相手にすると、ひとりひとりに対して話しかけることは不可能であることは言うまでもない。しかし、自分に対して語りかけられているわけではない場合、ふつうの人は眠る。そうするとこちらは大きな声を出す。喉を痛める。でも大きな声が聞こえても、自分に対して語っているわけではないので眠ってしまう。悪循環である。
というわけで、きちんと「あなた」に向かって語りかけているんですよというサインを出すような話し方が必要になる。そのためにはいくつかのことを心がけるようになった。まずは喋っているときの自分の声を聞くこと。発音が明瞭になるし、声のトーンが引き締まる。それだけではなく、完結したセンテンスで言葉を連ねることができるようになる。会話の言葉は大抵ぶつ切りだけれど、講義の場合はそうはいかない。相手の問いかけに応じて補足することができない。そうすると、語りの言葉の形も定まってくる。たとえば語尾と一人称代名詞の中でどれを選択するのかということが決まってくる。私の場合は、語尾は「です」「ます」が基本で、一人称代名詞は「俺」になる。半分は意識的な選択、半分はこれが話しやすいと感じるからである。奇妙な折衷かもしれないけれど、なぜかこうなる。「私」とか「だよ」とか、そういった言葉を挟むと、たぶんつかえる。生の部分と、講師という役割と、自分にとってしっくりくる配合の割合があるのかもしれない。
自分の声を聞く必要があるのにはもうひとつ理由がある。それは生徒の耳に対して直接的に自分の声を届けようとしないほうがよいと思うからだ。ひとりひとりに語りかけているわけでもないのに、個々の耳に直接響かせようとするのは、無礼だし嘘くさい。という精神論めいた言い方は比喩みたいなもので、そんな無理なことは自分にはできませんというだけのことだ。まあ、相手は若い人たちだし、教壇に立っているだけで「うるせえな」と思われても致し方ないことだと思う。その中で直接的な声は本当にうるさく思われるような気がする。というわけで、一度壁や天井に声を当てて、「ぶつける」というよりは「当てる」というかんじにして、そのうえで反響した声を届かせるというようにしている。これは、研究室のとてもよい声をした先輩がいて、実に耳に心地よいのだが、その理由は声をその空間の隅に当ててから我々の耳に届くようにしているのではないかと勝手に推測して、いつか習得したいと常々考えていたのである。柔らかいのによく聞こえる声…。もちろん私の声はそんな大層なものではないので、あくまでも意識しているというだけですが。実際この話し方は効果がある。理系でセンター試験でしか現代文を使わない生徒が、授業中いつも眠そうにしていてどうしたものかと思っていたのだけれど、これをやってみると生徒たちが驚くほど集中している。いや、本当に驚きました。たとえ授業でも、受験対策でも、「私の言っていることを聞いて!」というかんじで喋ると、よほど相手のモチベーションが高いか、忍耐力があるか、カタブツでないと話を聞き続けることはできない。一方的に喋り、一方的に聞くだけなのだから。大人数を相手に会話なしに一方的に話し続けるというのは、あまりまともな状況と言うことはできない。だったらせめて一工夫する必要はある。
今後とも精進。これからもいろいろ書くかも。