修行前

ここ数ヶ月間ずっと思い込みをしていたことに、今日気がついた。同じ本を何度繰り返し読んでも、解釈したことを実際に書いてみないことには、誤解にもなかなか気づかない。おかしいなあと行き詰まりを感じて、うんざりした気分で何度か読んだところを再読して、ようやく間違いに気づく。まったく明後日の方向を向いていたというわけではないにしても、間違いは間違い。とはいえ、昨日は博士論文の全体がまとまらなくなるのではないかと感じて恐怖に襲われてしまった。
よく、根拠のないデタラメを自信満々で書いてある本に遭遇するけれど、最低限「間違い」だけは書きたくない。話にならないからだ。少なくとも公刊すべきではない。いま研究の対象にしている哲学者に関して書かれた本には、デタラメが実に多い。自分が書くものは、そうはならないようにしたい。そのために心がけているのは、正確かつ平明に書くということ、レトリックやジャーゴンを使わないことだ。そうやっていけば理解できていないことをごまかすことはできないし、自分の論述の中に辻褄の合わない部分が出てくれば容易に気づく。けっこうしんどい。しかし、今日のように誤解に気づく瞬間に一気に視界が開けるのを感じることができる。本当に快感だった。レトリックに酔うよりも、明晰さの中にある光のほうへ進むことのほうが、自分には合っている。
しかし同時に、自分にドイツ哲学の教養があまりにも欠けていることを痛感してしまった。カント、ヘーゲルハイデガー…。今日はカントについて勉強するための本を探しに行ったけれど、結局はカントを読むのがいちばんだということがわかった。本当にいつものパターンだ。就職のことばかり考えていたけれど、博士論文を書き終えたら、腰を据えて基礎勉強に励みたい。このままでは枯渇してしまう…。気合いを入れないと、研究者としてスカスカのまま終わってしまう。