散歩

散歩をした。ここに住んでから一年近くの時間が経過した。生活のパターンが定まると同時に、移動する場所もおおよそのところ固定してくる。日常生活が展開される世界は、家を起点としていくつかの道路に沿った線上に展開されることになる。東京に住み始めて地下鉄が主要な交通機関になったとき、通り過ぎるだけの駅の地上がどのような場所なのかがひどく気になった。点と点の間はほとんど無に等しく、地図を見ながら記号の還元された街の姿を想像して、いつかそこに立つ日を待っていた。今はまた、いくつかの目的地に規定された空間だけが、私にとって存在する世界になっている。
生まれ育った郊外の土地とちがって、東京のように建物と人が密集した場所は、小さな路地も含めれば、誰も踏破することが不可能なほどの道が複雑に絡み合っている。狭くてそれぞれに独特な形をもった土地に合わせて、そこには実に多様な建物がその姿を見せている。いったいどのようにしてこれほど狭い場所に重機が入り近くことが可能だったのかと思うほどに、日の光がまったく当たらない建物が密集している。東京の街が均質だというのはまったくの嘘で、それはほんの一部の地域に限られたことにすぎない。ここでは、川沿いの遊歩道に、とつぜん大きな仏像が鎮座している姿を発見してしまうような場所である。あまりに異様な光景に、川の向こう側に渡ってその説明書きを見たが、由来はよくわからないままだった。仏像の姿もさることながら、暗闇の中でそれに向かって拝み始めた同居人も、大したものだった。
いくつもの道が不規則に交叉して、おおよその方向を確かめながら、行き止まりを避けるようにして進む方向を決める。ある時は、何かがありそうな気がして、車が通ることのできないような細い道を選ぶ。商店街が住宅地の道路に突然現れ、いくつかの居酒屋からは人の話し声が聞こえてくる。住んでいる場所の近くにも同じような飲み屋があるが、足を踏み入れたことはない。どのような人々がそこに集まっているのか、私は知らない。そこに集まっている人たちの子供が、成長してそこに通うというようなことがあるのか、それ以前にその店を継ぐ人はいるのか。もしかしたら、ここでは一代限りで、すべての人が入れ替わることになるのかもしれない。気がついたらほとんどの家は何十年かの時が経過すると建て替わり、まったく新しい風景がひろがっているということもあるのかもしれない。
街の境界線は、片側三車線にもなる幹線道路くらいしか見当たらない。しかしその道路の向こう側には、こちら側とまっすぐの線で結ぶことのできる場所に、同じ細さの道が続いている。おそらく、それは一続きの道だったのだろう。いまは断ち切られている。幹線道路を車で走る人が、そこで道が交叉していると知覚することはない。建物が変わることはあっても、道路の配置はもはや変えようもない。その近くに住むわずかばかりの人が、その細く複雑に交叉する道を、自分の通る道とするのだろう。私と同じように、自分の住む場所と、いくつかの目的地を結ぶ場所とする。ほんの時おり、気まぐれな人が、目的地もなくそこを歩きまわる。