偉大な平凡さ

先日、アフガニスタンNGO活動に参加していた伊藤和也氏を扱ったNHKスペシャルの再放送を見た。金目当てのアフガニスタン人に拉致されて殺害された青年である。軽い気持ちで、彼の撮った写真が美しかったからというだけで見始めたのだけれど、そこに描かれていたのは本当に大切なことだった。
伊藤氏は、本当に平凡な人間である。アフガニスタンに行くまで何をしていたのか、農業を短大で勉強していたということ以外、番組では語られていなかった。それはおそらくどうでもよいことなのだろう。実際にアフガニスタンで行ったことは、誰にでもできることではない。いくつもの苦労をして、何年かをかけて、さつまいもの収穫にようやく成功した。一年に一度しか収穫の機会がないことを考えれば、土を掘り起こしたときに出てきた虫食いだらけの芋を見た落胆は、かなりのものだっただろう。助手のアフガニスタン人と協力して、何年目かで収穫に成功した。
助手のアフガニスタン人は、もしも十分な食べ物が手に入るのならば、誰も好んで兵士になどならないと語っていた。中枢部の人間は、それでも武器を手にすることをやめないかもしれないが、人々が彼らに従わなければ、いずれは弱体化する。末端の人間は、まさに生きることができないがために兵士になる。つまり、日常生活を獲得することができれば、もしかしたら混乱は消失するかもしれないのである。
ちょうど、軍隊を派遣するのとは逆の発想だろう。たとえ事実はどうあれ、兵士の存在は人々にとって敵である。何の解決にもならない。殲滅を志向すればそれだけ、敵の数は増え続ける。ケシの実の栽培で、資金源が枯渇することもない。その資金が人々の生活に流れ込むこともない。
人を殺すことの華々しさに比べれば、芋づくりは実に地味な作業である。勇ましい人間のすることではない。伊藤氏もまた、勇ましさや偉大さとは程遠い人格だったように思える。芋を作って、もしかしたら別の作物も作って、そしてアフガニスタンを自分にとっての本当の生活の場とするつもりだったらしい。拉致されて銃を向けられて、涙を流して命乞いをしたと、どこかで聞いた。偉大さとは対極的な、誰もがするような行為だ。英雄的な人物であれば、勇ましく死ぬということもあるかもしれない。
英雄などは求められてはいないのである。十分に食べ、安心して眠り、楽しく過ごす。かりに戦闘が終わるとしたら、平凡さの実現によってのみだろう。
殺された伊藤氏を悼む大勢の人々の様子も映し出された。あたかも偉大な英雄の死を哀しんでいるかのようだった。そして、伊藤氏の助手をしていた人物は、作物の栽培方法を他の人々に伝えるだろう。暴力は破壊し、後に何も残さない。何かを新しく作り上げることは、全く別の話である。何もない土地に、ささやかな何かを作り上げること。実現することは些細で平凡なことかもしれない。しかし行為に偉大さが宿るとすれば、おそらくそのようなもののなかにしかない。