誰の子供?

不妊治療中の女性に、誤って別の夫婦の受精卵を移植した可能性があるため、妊娠した女性が中絶をし、病院に対して訴訟を起こしたという記事が、朝日新聞のトップニュースになっていた。ミスをした医師に責任があることは確かだし、苦労した末の妊娠がこのような結果になったことで、精神的なダメージもかなりのものだろうと想像する。
しかし事の経過にいささか違和感を覚えてしまう。もしかしたら何らかの無知や偏見によって歪んだものかもしれないけれど、感想を書いておくことにしたい。公平な判断ができていないかもしれないし、当事者でないだけに想像力の及ばないところもあるとは思うが、もし間違っているところがあったとしても、違和感については書いておきたい。
なぜ彼女は中絶を決意したのか、それが私にはよくわからない。逡巡の結果の決意なのだろうから、中絶したことそれ自体について非難する気はない。自分にはその資格があろうはずもない。私は宗教者でもなければ権威主義的な道徳家でありたいとも思わない。けれども、彼女は自分の体内にある他人の受精卵を自分の子供としては認識しなかったのか、かりに事実を知ったうえで産んだとして、それが何らかの曇りをもたらすものだったのか、それが私にはわからない。妊娠の初期で、自分の体で何かを感じることがほとんどなかったから中絶をしたのか、感じていてもそうしたのか、あるいは、他人の受精卵だと知ったがゆえにそれを異物として認識したのか。
なぜ産まなかったのか、私はそれを理解したい。自分の体内にいる胎児が誰の受精卵であるのかということが、生まれてくるであろう子供への思いのようなものに、どのような変容をもたらしたのだろうか。妊娠して、体内で育てて、産めば、それは自分の子供なのではないだろうか。もちろん、たとえば強姦の結果として妊娠してしまったとしたら、その強姦の相手の子供を産むことを、おそらくほとんどの人が選択しないだろう。相手が誰であるのかということは重要だ。もちろん、体外受精の場合は事情が異なる。自分の望んだ相手の精子と受精させた卵を移植する。それが望ましいこととされる。でも、それはなぜ望ましいのか。遺伝子の問題? そうだとしたらあまりにも観念的にすぎるのではないだろうか。まさか体外受精によって自分の遺伝子を残すことが「本能」の根差すなどと本気で信じている人はいないだろう。
疑問はいくつかに分かれる。何らかの事情で妊娠できないと知ったとき、なぜ人は体外受精を望むのか。なぜ養子を育てるという選択肢はあらかじめ除外されているのか。受精卵を作ることはできても自分で産むことができない場合、なぜ代理母を利用することを考えるのか。そこは自分たちの精子卵子という「知識」以上に、「自分たちの」子供として認識させる何かがあるのだろうか。代理母の産んだ子供と、養子との間には、そのような「知識」のほかに何かちがいがあるのだろうか。産むという経験なしに育てることになるとすれば、両者に何か違いはあるのだろうか。そして、もし体内で育て産むという経験が決定的な何かをもたらすとしたら、それがもともとは誰の受精卵であったのかということが、なぜ問題になるのだろうか。
なぜ産まなかったのか。
いまさら言っても仕方がないし、私が書いたことをもし当人が目にしたら、新たに当惑を深めるだけかもしれない。それでも、解せない。体外受精の技術があって、不妊「治療」がある。多くの人がやっている。自分たちの遺伝子を存続させることができるかもしれない。自分にも産むことができる、母になれる。社会的な条件も技術的な条件もあって、多くの人が推奨し、自分もそれを求める。その中で感受性も作られる。「自分の子供」に対する捉え方もその中で作られる。なぜ、「誰の受精卵であるかは二次的だ」という結論にならず、「ようやく妊娠したがそれでも自分たちの受精卵ではないから中絶せざるをえない」と考えたのか。ひどく観念的であるように思えてならない。
なぜかものすごくもどかしい。