文章作法

論文を書くために読んだ本の中に、論文のためにはまったく使うことのできない部分に、本当はおもしろいことが書いてあることがしばしばある。最近では次のようなもの。

「著作をものするとき、技巧が目につくような書き方をしてはならないということは、誰もが知っている。しかし、こういう技巧を隠せるのもやはり技巧の力に他ならないのだということは、それほど知られてはいない。著作家のなかには、平明で自然な書き方をするためには、一切の順序というものに従わずに書くべきだと思いこんでいる人も多いのである。しかしながら、その自然という美しい言葉を欠陥のない自然という意味で理解するならば、無造作な態度でそれを模倣しようとしてはならず、こういう無造作な態度を退けるのに十分な技巧をもってはじめて、技巧は目立たなくなるのだということは、明らかである。」
「一方では逆に、非常に律儀に順序立てて書く著作家もいる。彼らはその著作を注意深く分けて章立てし、その各章をさらに細かく分割する。しかしこういう著述を前にすると、あまりにも技巧があちこちに顔を出すので、人は不愉快になってしまう。彼らが順序立てをすればするほど、その文章は人をうんざりさせるような、無味乾燥で理解困難なものになってしまうのである。」

コンディヤックの『人間認識起源論』のある一節から。文章を書くことそれ自体が一種の技巧なのだから、自然に見せるにはそのための技巧が必要、と理解しておけばよいだろうか。もちろん、ある種の効果をもたらすために書かれるものもある。それでも、ここに書いてある「文章作法」が、理想のひとつであることはまちがいないだろう。新聞らしい新聞の文章や、論文らしい論文の文章も、無駄を削ぎ落としてシンプルにしてはあるけれど、技巧が目立つと言えばこれ以上目立つ文章もないかもしれない。まあ、ありえない理想として念頭に置くだけの価値はある。
しかし、哲学者が後半に書いてあるようなことも否定してしまうというのは、少しは驚くべきことであるかもしれない。しかも、これ以上ないほどに生前と章立てをして、しかも読みやすい本を書いているというのに。コンディヤックは、自分が「自然な」順序で著作をものしていると考えていたからかもしれない。すごい自信だ。時代によって好まれるフランス語もあるのだろうけれど、無味乾燥と自然との境界線の在り処は、少し気になるところだ。