翻訳とか

今日も博士論文の続き。見通しはついているけれど、到達点まではあまりに遠い。素振りばかりを繰り返していつまで経っても実戦に至りつかないようなもどかしさがある。いまはデカルトコンディヤックについて書いている。この俺がデカルトコンディヤックだってさ。笑える。いったい誰がこんな事態を予想しただろう。それが意外におもしろいということに、自分でも驚く。きちんと哲学科の学生をやっていますよ。
今日は以前使っていたパソコンをいろいろときれいにして、きちんと使えるようにした。単なるワープロに変身させたおかげで、なかなか素早い反応を示してくれる。これで場所を選ばず書くことができるようになった。これまでもワード以外はほとんど使っていなかったせいでどのような機能がついているのかまったく理解していなかったけれど、いじっていると、あらまあと驚くことが多かった。相変わらずよくわからないものがくっついたままだけれど。
論文というものを書いていると、読むことと書くこととがほとんど一致したような作業になる。図書館に行って読んで、帰ってきて書いてという作業をすると、何の進歩もないままに二度手間をとることになる。ノートをとっても忘れてしまうことがいかほどに多いか。読んで理解するということは、それについて書くことができるということだ。一種の翻訳をしつつ、著者とは異なった視点からそれを再構成する。もちろん、それ自体が翻訳の作業と酷似している。論文を書くときに翻訳の作業に似た感覚をもってしまうことに否定的な評価をくだす人も多いが、それは翻訳の作業というものがどのようなものか理解していないということなのだろう。自分は日本語で考え、書く。読む人もまた、日本語で読み考える。距離と密着の相互の過程から、どこにもなかったものを生み出す。だから日本語で書く。
堀江敏幸須賀敦子といった人の書くものに惹かれてしまうのも、そのような構えを体現しているからだろう。ただし自分は、外国語を経由することで、日本語の新たな形を作り上げるというだけの力はない。もう少し些細なことをすることになる。文字どおりの「翻訳」については、まあ考えないことにしよう。