さらに補足

日本全体が超国家主義に走っていたかのように見える重要な要素を挙げることを忘れていた。それは恐怖だ。兵士たちは他国の兵士による殺害の恐怖に見舞われれば、その恐怖を殺すために何らかの信に縋りつく必要があるかもしれない。殺害する機械としての人間を作り上げるためには、いろいろな方法が必要になる。また、戦闘員ではない人々は、他国の兵士よりもむしろ、自分の国家の兵士による迫害や殺害の恐怖に見舞われたとき、国家を崇拝しているような外見を作り出す必要がある。もちろん、これは自己保身のための外見上の恭順の意を示すという行為にも転化する。卑しいと批判することは傲慢だろう。しかしそれでも、「外見上」の振る舞いを集団的に纏うことには、これほどに大きな効果をもたらすのである。
もう一つ挙げることができる。この場合は、実際に国家への信を作り出す。第二次世界大戦による死者の大部分は、「犬死」である。これは否定しようもない。彼らは現在の日本の礎を作った「英霊」ではない。身近な人が無意味に死んだことに耐えることができる人は多くない。だからこそ、残された人々は死者を英霊にしようとする。無意味から意味を作り出すこと、ここに信が生起する素地がある。沖縄の人々ですら、である。意味を作り出すことが、実際にその人を殺したものに対する憎悪よりも優位に置かれるというのは、驚くべきことだろう。
上に挙げたような事態に対する批判は、いくつかの政治的な立場を導く。まずは靖国神社の撤廃である。それが不可能であるならば、国家とは無関係の宗教施設であることを明示する必要がある。戦死者を「英霊」とすることは、第一に欺瞞でしかない。そして、彼らが「英霊」であるのだとしたら、それは彼らが無残に死に、敗戦することで戦勝国アメリカから与えられた憲法を肯定することであり、戦勝国アメリカを無条件に讃えるということに他ならない。彼らが死んだことによって肯定すべき現在があるのだと言うならば、それは、彼らに対する殺人に現在を生きる人々が永久に加担し続けるということである。
さらに、あらゆる追悼施設を拒否すべきである。彼らは国家や国民が追悼すべき人々ではない。そうではなく、必要なのは、彼らを殺してしまったということを深く悔い、「謝罪」することではないだろうか。無意味な犬死をさせてしまったことを認めることから始める必要がある。謝罪することですべてが終わるわけではない。そのようなことで何かが終わるわけではない。過去はけっして清算されない。清算されないにもかかわらず、あたかも片付いたかのように振る舞うことは許されないだろう。これが遺族の心を深く傷つけるということは否定できない。だが、英霊化という欺瞞を行ったことは、そのような事態をあらかじめ「解決」したのではなく、単に「回避」したにすぎない。そして、彼らの死が犬死だったと認めるということは、大量の犬死を引き起こす戦争を拒絶する以外にはない。これは何も九条を護持しろということではない。九条が改変されるかどうかではなく、どのような条文になろうとも、戦争に加担することを拒絶しろということだ。
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暴論だろうか。そうかもしれない。しかし、間違っているとは思えない。国家と信の問題については、これからも考えていくことにしたい。