補足

様々な誤解がありそうなので、昨日書いたものに若干の補足しておきたい。
日本の現状についての認識については、あらゆる〈信〉が存在しないのではないだろうかということに関してはあまり変更はない。丸山眞男が『日本の思想』で展開した「精神的雑居性」に対する批判からも、同様の見解を敷衍できるように思う。そのうえでもう一つ、重要な要素として「ロマン主義的なメンタリティー」の変種を挙げることができるだろう。一種の「自己実現」や「個性」に関する言説がそれだ。自分には世界に存在する他の誰とも異なった固有の何かが存在しており、それを見出すことこそが生きていくうえで第一の目的となる、というのがそれだ。「自己実現」であるにもかかわらず、それが「発見」の対象であり、陶冶されるべきものではないというのが特徴だろう。
もう一つ、資本主義が世界観形成の唯一のファクターになってしまっているのではないかということにも説明が必要だろう。これを言っただけでは俗流唯物論を主張しているようにしか見えない。例を挙げてみよう。たとえば将来の生活をどのようなものにするのかということを考えるとき、人はどのような要素を列挙するだろうか。どのような住まいをもつのか、仕事と生活のバランスをどのように維持するのか、子供は何人で、どのような学校に入れるのか。未来を思い描くときに、それに具体性を持たせるのは、その時点でどれだけの経済的な条件を有しているのかという事実に尽きる。もちろん、選択肢は無限にある。しかし選択は、何を購買するのかという、消費者のそれとほとんど同一である。
消費者的ロマン主義者、ロマン的消費主義者。現代日本の支配的メンタリティは、これではないだろうか。問題になるのは、何かを獲得したり実現したりしようとするとき、その実現の対象があくまで個人的(あるいは家族の範囲内に留まる)であり、その手段が購買のみになるということである。そして、理想とされる事柄があくまでも個人的ないしはきわめて小さな集団のものであるとき、あまりにも多くの「無関係な」他者が生まれることになる。現在の経済危機の下で、企業による首切りが目立つ一方で、その対象とならなかった労働者の反応がほとんど皆無であるのは、このような要因によるような気がしてならない。もちろん、派遣労働という雇用形態が、あらかじめ労働者同士の分断を可能にするものであるからという要因がきわめて大きいということに留保をつける必要がある。しかし、彼らに対する処理が、あくまでも「行政的」であって、「政治的」にはならないというのが、この社会の特徴であることはまちがいないことだろう。
それではなぜ生産者の共同としての社会主義について再考する価値があるのか。まず、信の不在。何もないところに何らかの超越性の原理を持ちだすことはできない。ナショナリズムも不可能である。行政に対する消費者的な批判はあったとしても、政治的主体としての市民あるいは国民として自己を捉えるという潮流は、あまり大きくなりそうもない。(その意味で宗教原理主義も、巨大な潮流となることはないように思う。オウムという「例外」については別の要素を入れて考える必要がある。)
もう一つは、何もないところから始めるよりは、消費者であるためには労働者でなければならないのだから、その意味するところを考えなおしてもいいのではないかということである。労働はあくまでも消費の手段であるという認識は、それ自体、否定されるべきではないだろう。しかし、それがロマン主義自己実現と結びつくとき、あまり肯定されるべきではない帰結が導かれるように思う。つまり、現状である。何かを獲得することによって自己を見出すという構図ではなく、消費もまた一つの手段にすぎないという認識が必要だろう。当たり前の主張でしかない。簡単に言ってしまえば、もう少し貧乏であれということだ。田舎者の成金のような人間たちが崇め奉られるような社会は、あまり居心地のよいものではない。何かを購入することができるという事実がこれほどまでに権力をもつという状況は、あまり品がない。貧乏(貧困ではない)であってもそれが苦しみにならない社会を実現するとしたら、社会主義の遺産を点検してみてもよいのではないだろうか。まずは、点検からである。主張できるような段階ではない。