社会主義を再考してもよいのではないだろうか

最近、現代フランスの政治哲学のテクストを読む読書会に参加している。この手の領域を専門にしている人たちと親しく会話をする機会がこれまでなかったので、いろいろと勉強になる。それと同時に、自分の立ち位置や日本の現実に対する認識が少しずつ変化していくことを感じる。
まず、対象へのコミットメント。こういった種類の読書会だけに、やはり参加者にはフランスへのコミットメントが非常に強い。自分は、思想史研究としてはフランス哲学を対象としているのに、フランスに対しては距離があるというよりは、フランスのことはほとんど知らない。基本的には、自分が生きている日本を参照しながらしかテクストを読み進めることができない。どちらかといえば、そこで問題にされている対象それ自体よりは、対象を扱うときに思考を規定しているもののほうに目が向く。しかし、他の参加者の多くは、共和制やライシテの問題、市民宗教といった問題を、自分のものとして語っている。彼らの多くは、フランスについてよく勉強しており、留学経験者が大半を占めている。そこにあって私の発言と彼らのそれとの間には、微妙な温度差がある。共和制という強い枠組みの中で展開される議論に対する違和感は、これから先も消えることはおそらくない。しかしそうすると、その中でなぜ自分がフランス哲学をやっているのかということを常に正当化せざるをえない状況に追い込まれることになる。
もう一つ認識したのは、日本においては、ナショナリズムも宗教性も、おそらく公的な議論の真剣な対象にはならないだろうと、確信に近いものを抱くようになった。仮に戦前と戦後の日本に生きる人々のメンタリティーの間に連続性があると仮定するならば、日本において「超国家主義」が存在したことはない。国体に対する強い信仰の下で人々が戦争に邁進していったというのは、現実とはずれた話なのではないだろうか。誰も信じていないにもかかわらず、それが進行していったということに問題があるような気がする。具体的な中身は忘れたが、ジジェクが、誰か別の人が信じていると誰もが思うことによって、あたかも誰もがそれを信じているかのように事態が進行してしまうメカニズムを説明していた。だから、抽象的な原理に対する信が政治の問題にすることには著しい困難があるような気がする。むしろ、何事も信じられることがないがゆえに、どのように異常な事態が進行しても、それに対する批判が困難になるのではないだろうか。だからこそ、あたかも強い信仰が世界を動かしているような事態になる。
これは、現代の日本に対する認識にも連動する。公的領域において政治と拮抗するだけの信仰がないと、むしろ世界観形成を可能にするものが、唯一、資本主義だけになる。戦後の日本がこれだけの経済成長を遂げたのは、資本主義を抑制し、それを下部領域として編成するものが皆無だったからではないだろうか。信仰と拮抗するだけの政治がないと、とは言ったが、実際には、そのような種類の信仰がなければ、世界を編成しようとする政治が生起する余地もない。だから政治も宗教もなく、ただ資本主義だけが存在するという日本社会が存在することになる。大衆社会と「個人主義」が進行し、何かが起こったときに「連帯」するのではなく、国家という御上に縋りつこうとする。現在では「縋りつく」というよりは、下方ではなく上方にいる家臣に命令しているかのような、奇妙に強い口調が目立つ。資本主義社会における消費者のメンタリティーのみが跋扈する。そこから毀れ落ちたとしても、貨幣をもたない消費者として生きようとしてしまう。もちろんそこに政治はない。
このような事態を目にしたとき、確かに共和主義に対して目が向くのは理解できる。しかし、それを可能にする素地はいっさい存在しない。私はむしろ、現在の状況を目の前にして、生産者の共同としての社会主義の可能性を、再考すべきであるような気がしている。ナショナリズムも宗教性もありえない中で、剥き出しの資本主義だけが世界を構造化するものとして特権的な地位を占めているのだとしたら、そして、そのような事態を肯定することができないのだとしたら、考えてみてもよいような気がしている。