共同研究

今日はいま進めている共同研究の、何度目かの打ち合わせ。共著で論文を書くのはいままでなかったので、いろいろな作業で苦労している。そもそも、どのような手順で原稿を書いていったらよいのやら。効率のよい方法というのはおそらくないので、論文の内容と構成を決めて、それぞれが担当すべき箇所をもちよって、それを土台にしてディスカッション。ひたすらこの繰り返ししかない。しかし、それだけではただの寄せ集めになってしまう。幾人かの著者が集まって「論文集」として出版される本の中には、それぞれの章の間にほとんど関連を見出すことのできないものが多い。一本の論文の中でそのような事態になることだけは避けたい。もちろん、そんなにひどいものができあがるわけがないのだが。
このような作業の利点はいくつかある。まずは徹底した書きなおし。それぞれが専門をもちよって論文を書いていくので、実際のところは、相手が次にどのようなことを書いてくるのかということを正確に予想することはできない。こちら側としても、書いているうちに視点を変えたほうがよいことがわかることもある。だから、一度書いたものがそのまま最終稿になることはありえない。相手の問題意識を理解したうえで、そこに乗ったうえで議論を展開し、その延長上で問題意識それ自体を再び問いに付す。他者の視点の理解と、自己の視点を擦り合わせるという作業は、最終的には自分の頭の中で行われる。しかし、その成果を相手から承認されなければ意味がない。
次に、これとほとんど同じようなことだが、自分の議論を展開するときにも、それまではもっていなかった視点から改めてテクストを再読することができる。自分のように、同じ哲学者を専門にしている人が周囲にいない場合、ただ黙々とテクストを読み続けることになる。それが正統な研究の進め方であることは間違いないのだけれど、どうしても読み方の偏りを修正する機会がない。もちろん、ひとつの論文の中で視点がぶれてしまってはまともな論文を書くことはできない。しかし、自分の解釈の観点それ自体を再考しなければ、ぶれない視点というのもただの独断と同義になってしまう。絶えざる再検討は、研究を続けるうえで不可能である。
今回は、始まってからまだ間もないにもかかわらず、多くの発見があった。思想史的な連関が理解できたというだけではなく、なぜこの哲学者がこのような主題を、このように考えたのかという、その哲学者固有の問題設定のあり方が以前よりも見えてきた。そして、存在すら知らなかった英語の講演原稿を読むことはできた。今回の共同研究の資料調べの過程で、私が独自の解釈として幾度か提示してきた観点は、哲学者自身がはっきりと明言していたのである。これまでが無駄な努力だったというのではなく、言質を取ることができなかったおかげで、その意味するところをよく考え、統一的な解釈を明確にすることができたと思う。その上で言質を取ることができたのだから、この点に関してはこれ以上のことはない。まあ、資料調べがなっていないという情けない事情も明らかになったわけだが。
まあ、仕方がない。反省ということで。しかし、人文学の領域では、もっと共同研究が盛んになってもよいのではないだろうか。個人で何かをやろうとしたところで、最終的にはその個人の限界を越えることはできない。無理して一人で何かをやるよりも、大きな成果がでる。研究が自己満足で終わるべきではないとしたら、論文を共著で書くということは、そこから一歩出ることになると思う。何より、つまらない自己満足に浸っているよりも、はるかに楽しい。ただし、それでも一人で進めた研究が基盤にあって成立するものだけれど。孤独な思索と共同的な討議。当たり前のこうした環境は、誰かが用意してくれるものではない。これからも、いろいろなところで試しにやってみたい。
しかし場所選びは重要である。お互い喫煙者であるとはいえ、地下室で100席以上ある喫茶店では、呼吸困難になりかねない。午前中は新宿東口で待ち合わせ。本当にさわやかな冬の朝の日差しを浴びながら、薄汚い街で、よれよれの人たちに囲まれながら打ち合わせ。仕事をしていないサラリーマンたちに混じって、公害病もなんのそのといった空気の中でコーヒーを飲む。人生転落中という気分になった。それはそれで久しぶりの気分だった。