学術論文のおもしろさって何でしょう

溜まってきた博士論文の草稿のうち、ひとつの主題を扱った部分の約20ページを読みなおした。まとめに入ろうかというところで、それ以前に自分がどんな言い回しをして、どんな部分を引用したのかということを、そこそこに長い時間が経過するうちに忘れてしまったため、確認をしようと思ってのことだ。こんなふうにして忘れてしまうというのは私の頭の大きな欠陥だとは思うが、実際に書いてみないと思考が定着しないし、先に進めばそれ以前に考えていたことはほとんど無意識の前提となってしまう。物を書くということは、前から順に進んでいくものであると同時に、最後まで考えきってからはじめて全体の輪郭が明らかになり、再びそれ以前に書いたものを再考する、というサイクルを描くものだと思う。読む場合もたぶん同じだ。似たようなことを現代文講師をしていた頃に生徒たちにも話したような気がする。そんなわけで、読みなおしたというよりは、はじめて自分の書いたものをきちんと読んだわけである。
結果として、驚いたことに、少しもおもしろくない。草稿の域を出ないものだから、論旨が不明確だったり、論証が不十分な部分が目につくところはある。それは仕方のないことで、最初から完成された原稿ができるようなことは、私にはほとんどない。そんなものは後からいくらでも修正が効く。しかしそれ以上に問題なのは、読んでいて少しも興奮するところがない。ひとりの読者として自分の書いたものを前にして、あっさりと「つまらない」と感じてしまうことは、大きな問題である。以前はこんなことはなかった、と再び思う。自分でおもしろくないとしか思えないものを、他人に読ませるわけにはいかない。自信をもって他人に差し出すことができない。酷暑と強い日差しもあって、憂鬱な気分になり、晩御飯の焼き肉のときも、気分がぱっとしなかった。
よくわからなくなってしまったのは、学術論文のおもしろさというのが、いったいどこに存するのかということである。一次文献として選択するものは、大抵の場合、一段落に少なくとも一か所は、思わず赤線を引いてしまうような本である。そうでなければ最後まで読み進めることが私にはできない。このような読書の仕方もあまりよいとは言えないけれど、今のところは忍耐が付いていかない。さてそれではおもしろい学術論文とはいったいどのようなものだったろうか。考えてみると、ほとんどない。強いて言うならば、自分の知らない分野の入門書である。それを除けば、学術論文ではなく、いわゆる「批評」だろう。文献研究でおもしろかったものは、数えるほどしかない。
さてどうしたものか。引用のみで構成される本といものを理想とする幾人かの思想家がいた。私も、「研究」をするときはそれを理想としている面がある。論証は引用で、とう方針である。しかしそれだけではつまらない論文しかできあがらないということを痛感している。ほとんど非常識と言えるような思考を展開する哲学者の文章を、まともな言葉に翻訳するということは、ただ彼らの思考から毒を抜いているだけで、毒の部分こそを受け取るべき彼らの思考を、平板なものにしているだけのような気さえする。単なる独断や誤読に陥らず、「研究」というスタイルで、それでもおもしろいものを書くにはどうしたらよいのか。
何とかするしかない。
そんなことを考えていたら、疲れ果てて横になったのに、まったく眠れなくなってしまった。ビールなんか飲まずに、書きなおしを進めればよいのに。困ったものである。