凝った

ずいぶんと久しぶりになってしまった。この間何をしていたのかというと、論文を書いたり夏バテしたり家事をしたりしていた。いつもと同じだった、とまとめることができる。いろいろ書くこともあったような気もするけれど、ほとんど忘れてしまった。鰻を食べたなあ、とか、熱中症になりかけて激しい頭痛と吐き気が同時に襲ってきて自分はもしかして脳腫瘍かもしれないと妄想してみたり。ぱっとしません。
でもここに何も書かなかったのは、理由めいたものがないわけではない。論文のことを考え続けて、書こうとしたり実際に書いてみたりした過程で、一種の失語症状態になってしまったのである。もちろん重度のものではない。喋ることも聞くことも、読むこともできる。ただうまく文章を書けなくなったというだけで、失語症という表現はただの比喩のようなものである。しかしこれはけっこう苦しい。博士論文を12月までに書けという指令が下っているなか、実際の作業はちまちまとしか進まず、締切が日々近づいているのを感じ(錯覚かもしれない)、頭の中にぶち込んだ諸々の知識や言葉がぐるんぐるんと廻り続けるような感触。昔はもっと勢いよく書いていたような気がして、どうしてこんなことになってしまったのかと、煙草を吸いながらも焦りが治まらない。本当のところを言うと、以前は何も考えずに思いつきを書いて、そのまま推敲もせずに、ある程度の分量になったらそこでおしまいという書き方をしていたというだけで、少しはじっくり考えるようになった現在のほうが幾分マシである。ようやく人並みに腰を据えて物事に取り組むようになったものの、せっかちな性格が変わるわけではなく、自分の適性に合わないことをやろうとして苦労しているというのが真相だろう。
しかしこんなふうに苦労している別の要因としては、簡潔な文を書くことができないという技術的な問題もある。この前、私の文を評して「凝っている」と言った人間がいる。こんなことを言うのは、もちろん同居人の役割である。確かにね、と思った。別にかっこつけて複雑な文を書こうとしているわけではないのに、外国語に訳したら関係代名詞節がやたらと多い文章ができあがり、妙に入り組んだ印象を与える。
理由がある。それはいままでに読んだ本の種類で、最も多いのが翻訳物だということである。特にフランス語が多い。したがって、私の文章は、「フランス語を翻訳したような日本語」に最も近いかもしれない。「フランス語のような日本語」でないところが情けない。フランス語の翻訳物の文章、私は心から嫌いです。かっこつけたようで。しかしその嫌いな日本語でしか文章を書くことができなくなり、ほとんど無意識の領域にまで入り込んでいるというという状態にあるらしい。そんなわけで、私の日本語はいま、肩が凝るというのと同じような意味で、凝っているわけです。