不思議な喫茶店

クソ暑いですね。まだ体が暑さに慣れきっていない。なぜ二十数年間生きてきて、夏の暑さがどのようなものなのかということを、暑くないときに生々しく想像することができないのだろうか。小学生の頃は大人になればそれができるようになるのではないかと期待していたのだけど、現在のところそのような予兆はない。その場におらずして生々しさを体験すること、私の生涯の目標である。単なる妄想なんだけど。
そんな中、本日も池袋へ。来年以降の食いぶちを得るためにちょっとした試験のようなものを受けに行った。今後私はどうなるのでしょう。まったく予想がつかない。とは言っても実際のところは、本当に狭い範囲内で、どうなるのかがわからないというだけのことではある。いきなりプロスケーターやらお笑い芸人になっていたりはしない。おそらく簡単にネットカフェ難民になることもなさそうだ。その意味では、来年のことに不安を覚えるというのはとても肝っ玉の小さいことなのかもしれない。まあ、小さいものは仕方がない。
本屋に寄った後、うらぶれた喫茶店に入ってみる。適当なところで曲がっているつもりがいつも同じ道に出てしまうのが不思議ではあるのが、何度か素通りしたことのある店である。その昔は非チェーン店の喫茶店というのは自分のようなオコチャマが入るところではないような気がしてドトールにばかり行っていたのだけど、今日は理由もなく大人な気分だったので入ってみた。しかし最近は思うのだが、喫茶店文化は若者に継承されず、大人の場所というよりはおっさんの場所になってしまったような気がする。コーヒー高いし。
その店は私の感覚からすると、なかなか不思議なところだった。犬をかかえたおっさんと、犬も猫もかかえていないおっさんがよくわからない会話をしていて、よく聞くと少年野球の監督か何かをしているようだ。どちらだったか忘れたが、片方が雷が嫌いらしく、雲が厚くなって帰っていった。入れ替わりに中年夫婦が入ってきて、飲み物を注文したようだったが、夫はスポーツ新聞を読み、妻はついていたテレビを眺め、互いの間に一言の会話もなく、店主に挨拶を帰っていた。その次に来たのは店主の妻の母親のようだったが、喉がかわいたらしく水を飲んで帰った。最後に犬と熱心に会話をする厚化粧の中年女性が入ってきて、十分ほど滞在して二千円近くのお代を払って帰っていった。
いや、何の不思議もないのだけど、何となく「喫茶店は社会においてどんな役割を果たしているのかね」といった疑問が浮かんでしまったわけである。あまりよくわからない。ひとりで酒を飲みに行くというのもあまり理解できない私はやはりオコチャマなのかもしれない。しかしね、パック入り砂糖入りのコーヒーを出されて500円を払うことに疑問を感じないというのが大人であるのならば、私は永遠にそんなものにはなれそうにない。おまけに、たいして混んでいないのに、一時間以上いる場合は追加の注文をしてもらいますという注意書きがメニューに張り付けてある。そんな阿呆な。試してみてもよかったのだけど、あんなものをもう一杯飲みたいとは思わないし。彼らは町内会の権力者か何かなのだろうか。実に不思議である。