長い顔

最近はまた毎日のように自転車を乗りまわしている。滞在する場所といえば自宅と大学と池袋という三ヶ所に限定されるという生活になって久しいのだが、引っ越しのおかげでその三ヶ所が自転車で20分以内の距離で結ばれるようになって、喜び勇んで出かけるようになった。あまり引きこもって論文を書こうとあがいても、逆に精神のバランスを崩して何もできなくなるからと後ろめたい言い訳をしながら、元気よくサドルに跨るわけである。
忘れていたことではあるけれど、自転車に乗るのはとても気分がいい。平地であれば漕いだぶんだけきちんと進み、下り坂であれば移動で熱くなった体の汗が空気中に発散し、上り坂はべダルを踏み込むときの足への抵抗感が心地よい。ご存知の人も多いかとは思うが、関東平野は坂が多い。山手線の内側も周辺も、少し移動すればそれなりに急な坂にぶつかることになる。自転車を愛する人間は、地面の起伏をも愛するのではなかろうか。いま思い出したことだが、その昔に中国を旅行したときは、いつまでも延々と、ほとんど重力と直角に交わる道路が続いていたような気がする。起伏のない土地での自転車の長距離移動は、少しばかり拷問に似ているかもしれない。どうでもいい話だが、中国製の自転車に何日か乗った後、奇跡的にも宿のレンタサイクルに一台だけあったブリヂストン製の自転車の乗り心地は忘れ難い。中国旅行で最も快適な乗り物だった。
自転車に乗っていると、車に乗っているのとも歩いているときとも、風景の見え方がちがってくる。原動付きの乗り物を自分では運転できないのでそのあたりのことはまったく知らないけれど、自転車は他の状況に比べて格段に視野が狭くなるのではないだろうか。そのあたりも私の性格にあっているのかもしれない。そして、なかなかに不思議な光景を見ることにもなる。今日は、下は国道、上は高速道路という交通量が多く、歩いていたら苦痛を感じかねないような場所で、揃って長い顔をした中年の男女がガラスの向こう側からこちらを見ていた。鼻の下をのばすことはしょっちゅうな私だが、あえて顔をのばすのは、鼻の穴に虫でも入ったときくらいだ。それも二人揃って。振り返ってみるとそこはファミリーレストランで、彼らは食事をしていたというだけのことなのだが、そこで私は一つの事実を改めて認識した。今まで長いこと見過ごしていたが、自転車に乗って視野が狭くなったおかげで、私は人生の一瞬を切り取ることに成功した。
人は何かを食べるとき、顔を長くのばすのである。