コメントに応えて

いつも応じるのに難しいコメントを下さる。感謝。自分の振る舞いを改めて反省することになるし、どのような状態に陥ってはならないのかということを自覚する契機にもなる。前回のエントリーの中には、こういうことは書くべきではないよな、と思える部分もいくつかあるけれど。
さて、まとめてしまえば、いかにしてインチキで善良な左翼知識人にならずに批判的スタンスを保ち、権威主義に陥らずに言説を繰り出すことができるのか、という問題になると思う。なかなかに厳しい問題である。
イードの言葉の中で私にとって中核にあたると思われるのは、Wも引用しているとおり、「安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこばむ」ということだと思う。正義を気取ること自体が安易な紋切り型だし、その紋切り型に従っている限り、自分は批判や断罪から免れうるという保証を手にしたことと見なしてしまいがちだからだ。正しいとされる言葉やスタンスを採用する集団が形成されることで、それ自体が批判を許さない権威と化す。スローガンの気持ち悪さや、業界用語を駆使して話す人間の鼻持ちならなさも、多分ここに由来する。
私が専門用語を避けようとするのも、紋切り型を回避することと無関係ではない。ある単語に思考が縛られるということは往々にして起こる。文体にしてもそうだ。自分の文体を磨き上げることは、思考のスタイルを獲得しようとすることとほとんど等しい。あるいは、それを常に変容させようとすることのほうが重要かもしれない。
様々な批判がありながらも、ローティの提示するアイロニー概念が重要だと思えるのは、上に書いたような権威化を避けるのに有用だと思えるからだ。ある種のスタイルを選択することが、免罪符になってしまうことを回避する。あるいは、自分の思考に耽溺して自ら紋切り型を再生産していることを自覚し、それを破壊する。さらには、新しい言葉を獲得しようすることを通して試みられる自己の特権化を疑問視する。総じて言えば、批判的スタンスによってしばしば生じる自己のヒロイックな称揚を禁じるということだ。

「自己・主体の相対性と暴力性を自覚し、他人たちを限りなく尊敬し他者に応答して自己を開く」といったdictumの業界権威主義的な追認こそ「安易な公式見解や既成の紋切り型表現」でなくてなんでしょうか。

この批判は確かに的を射ている。問題だと思うのは、このような紋切り型を口にしてしまうことだ。このように思っても言わないでおくことが重要なのではないだろうか。このスローガンの内容それ自体がまちがっているとは私には思えない。しかし、道徳的紋切り型、要するに「徳目」は、それ特有の胡散臭さをもつ。まともな神経をもっているならば、その疑わしさに口をつぐんでしまう。安全な立場からの正義を纏った厚顔無恥な発言が、人を逆撫でするのだろう。紋切り型を避けるというのが中核にあるというのは、そういうことだ。
文学研究と左翼との繋がりはこのあたりにあるのだろうか。そうだとしたら、い耽溺を避けつつ批判的であることを達成するうえで、アイロニーには一定の意義があるような気がする。そうでなければ意味もなく難しいことを言うだけで、誰からも耳を傾けられることのない文化左翼として生きていくしかない。