聖火雑感

昨日の聖火に関する感想を少し。中国のナショナリズムについて分析することは自分にはできないので、印象に残った言葉を。ああいうところに参加する「有名人」のくだらない言葉に目くじらを立てても仕方ないことかもしれないけれど、それでも。彼らは有名であるというだけで、石を投げられても文句を言えないようなことを平気で口にする。言論の自由というのは彼らのためにあるのではなく、集団の規模と暴力で口を塞がれている人々のためにある。
まずは萩本欽一。阿呆である。「欽ちゃんのときには飛び込まないでよ」「ハッピーな気分で終わりたかったのに」。そんなことになるはずなかろう。この種の人間が、戦時下で御用芸人にでもなるのだろう。
もう一人はブロード・キャスターに出ていたマラソンランナー。「平和を願う聖火が、沿道の皆さんにも見えるように出来るだけ高々と上げて、平和の重みを一歩一歩感じながら走りました」。あのちんけな火がどのような意味を持っているのかということがわからないのだろうか。何を聞かれても「平和」としか答えない頭の悪さ。紋切り型の思考がどのように愚かしいことなのかということを、繰り返し示し続けていたように思う。
両者に共通しているのは二つ。一つ目は、「対立があったとしても、それを隠蔽して仲良しのふりをすべし」という発想法。この種のきわめて「日本的な」説教は至るところで聞かれる。「空気読め」という言葉にも共通するものだろう。場を作り出すことが何よりも優先され、あるべきでないことは、「なかったことにする」。それがマラソンランナーの言う「平和」である。対立が明示化することを何よりも忌避すべきとする、もはや発想というよりは慣習と言ってよい要素である。
第二に、出来事の解釈の枠組みをひとつしかもっていないということ。自分の行っていることの解釈の特権が専一的に自らに帰されると考えているらしい。それがどのような効果をもつのかということには頭が廻らず、それを行ったときの心情や動機の理解を、図々しく他者に押し付けようとする。もちろんこのような理解も、彼らの心情に反したものだろうから、決して認められることはないだろう。
今回の聖火は政治の問題である。政治とスポーツを切り離すべきというお題目は、実際にそうなっていないから唱えられるお題目である。この問題に限らないが、当たり前のことが当たり前のこととして語られないのはなぜなのかというのは不思議なことである。少なくとも日本語圏の内部で、そのようにして語られることで不利益を被る人間がいるのだろうか。
いろいろなニュースに気が滅入る。私が滅入ったところで何にもならないが。ビルマ人がミャンマー大使館で抗議をして、なぜ日本の警察が彼らを取り締まるのか。胃が重くなる。