知識人

「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」
イードの『知識人とは何か』を数年ぶりに読み返した。

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

この本からいかに大きな影響を受けているのかということを改めて思い知った。自分の頭で考えていたようで、実際には、そのように考えるようになったきっかけはこの本だったようだ。バーリンを読んで、政治哲学者に求められるのは「現実感覚」だと思うようになったわけだが、それもすでにこの本を読んだときに植えられていたらしい。まったくの未知のものはその本の中に読み込むことができないというのは、真実かもしれない。もちろん、自分の頭で考えた。結果的にはサイードの考えに肉づけをすることにもなっただろう。しかし、生きるうえでの基本的な姿勢は、そこから少しも逸脱するものではない。
オリジナルではなかったというのは、それほどがっかりする必要のあることではない。それ以上に、自分の倫理がサイードの言う「知識人」から隔たってはいないということが、少なくとも、過った道を進んではいないであろうことが、心強い。
とはいえ、サイードがそこで言っているようなことを、自分ができているわけではない。まだまだ修行時代だと言って済ますことのできるような問題ではない。専門家になるための訓練はあくまでも訓練だし、だからといって何もできないことの言い訳にはならないだろう。やはり、「哲学者」は「専門家」ではないと、繰り返し言い聞かせたい。自分で言っておきながら耳にタコができそうである。
最後に引用。

…わたしが使う意味でいう知識人とは、その根底において、けっして調停者でもなければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である。つまり、安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこばむ人間であり、なかんずく権力の側にある者や伝統の側にある者が語ったり、おこなったりしていることを検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である。ただたんに受身のかたちで、だだをこねるのではない。積極的に批判を公的な場で口にするのである。
 これは知識人の使命を政府の政策に対する批判者に限定することではない。むしろ、たえず警戒を怠らず、生半可な真実や、容認された観念に引導を渡してしまわぬ意志を失わぬことを、知識人の使命と考えるということだ。こうしたことは、ゆるがぬ現実感覚をどこまでもちつつげられるか、合理性を求める体力をどこまで維持できるか、そして、公的な場で出版したり話をしたりする活動のなかで、自分自身を見失わずにバランスをとりながらどこまで奮闘できるか、にかかっている。いいかえるなら、知識人の使命とは、つねに努力すること、それも、どこまでいってもきりのない、またいつまでも終わらない努力をつづけるということだ。

私のようなちんけな人間が、これを倫理的原則として生きようとすることは、単なる誇大妄想だろうか。それにしても私はどんな方向に進んでいるんでしょう。