話は脱線して憎悪の方向へ

今年度は二ヶ月に一度というハイペースで締め切りやら発表やらがあって、新しいものに取り組む度に頭の回路を総取替えをしていた。おかげさまでずいぶんと勉強になったし、周到な準備をするというのがどのようなことであるのかということも身をもって理解することができた。しかし、何かの準備をしている期間というのは、じっくりと腰を据えてというわけにはいかず、ましてや関係のない本を読むような精神的な余裕などない。時間は十分にあるのに、手が空いたときに何かをするような気分にもならない。おかげでまったく新しい知見を得るようなことはほとんどなかった。
いまは生活のリズムも変わったし、大学院のゼミを除いてしばらくは急ぎで何かを仕上げなければならないということもない。来年度末に提出すると決心した博士論文の準備に専念できる。途中で一つくらいは短い論文を仕上げたいとは思っているけれど。読むことと書くこととの、適切なペース配分ってものはないのだろうか。
そんなわけで、ずいぶん前にさらっと一読しただけの『知の考古学』をフランス語で読み始める。けっこう快調。なぜだかとてもよくわかる。あらまあ。ずいぶんと身構えていたのだけど。思想史ってなんじゃらほい系の本をいくらか読んできたせいかもしれない。あとはいつのまにか人文社会系の世界では、ここで展開されているような発想が「常識化」していたのかも。政治・社会理論でまったくもってふざけているとしか思えないような仕方でフーコーが援用されているのを其処彼処で見てうんざりしているわけだけど、少しはそれら阿呆どもが役に立っているのかもしれない。フーコーが提示したものはわかっていなくても、何を批判の対象としているのかということくらいは理解しているということなのだろう。うむ。
英語圏の社会・政治理論家たちは、フーコーなんかよりも、素直にスキナーやポーコックをじっくり読んだほうがいいような気がするのだけど…。まあ、「政治」思想史家には興味がないということなのだろうか。たとえばフェミニスト理論家(彼女たちは私にとってフェミニストではない)にとっては、フーコーセクシュアリティに「言及した」ということが重要なのだろう。たとえ中身をまったくもって理解できていないにしても。
しまった。こんな話を書く予定ではなかった。規則正しい生活をして冴えた頭でフランス語の本を読むのは楽しいなあということを書くはずだった。すてきな毎日だわ、という話よりも、憎悪がこもってしまうような内容を書こうとしてしまうのは、私だけの傾向ではないだろう。
楽しい話はまた今度にしよう。