春日直樹『〈遅れ〉の思考』

睡眠不足で気分もすぐれなかったので、以前から気になっていたこの本を買って読み終えた。著者は文化人類学者だが、私のような門外漢がイメージするようなそれとは大きく隔たった思考を展開していた。問いを提出することは思考の道筋を限定することに等しいが(それなしに何かを考えることはできない)、一端は広い視点をとって、そのうえで限定を行うということが欠かせない。そのためには、多くを読み、聞くことがおそらく必要なのだと思う。
さて、本書のキーワードである〈遅れ〉や、待つこと、自己統治、市場化の問題など、扱われていることは多岐に渡っている。さらに扱われている文献も、専門である文化人類学からドゥルーズフーコーなどの哲学、またカルチュラル・スタディーズや文学など、「専門家」には扱いきれないような組み合わせを、すべて適切に扱っている。しかしそのどれもが私自信の関心にも重なってくる。すでに生きてしまっていることの直接性の体験とそれを振り返るという反省の営み、自己の統御とそれが他者によって絡め取られてしまう事態、「問題―解決」という枠組みで何かを追うのではなくただ待つということ。自分が何かを考えるときの暗黙の指標となっているものの多くが、明晰な言葉で語られていた。
この本は語の正当な意味での「エッセイ」である。筆者自身、〈遅れ〉という言葉を「正確な定義も与えずに」本書全体で使用している。それは〈遅れ〉という概念に予め固定した意味を与えて思考を硬直させるのではなく、その概念を使用していくなかで筆者がその概念の有効性を試すと同時に、読者である我々がそれを追いながら規定していく作業に開いたままにしているのである。概念を「試す」ことそれ自体がモチーフとなっている「エッセイ」なのである。まさに哲学的な作業と言ってよいだろう。
翻って文献解釈という私の参加している「哲学科」の営みは、このような意味での哲学とは大きく隔たっている。しかしそれはそれでよい。所詮は業績作りを目的にしている学術論文とにおいては、そのような試みをすることは求められていない。業績を作りたいのであればその業界のルールに従わなければならないし、そこで哲学を行うことは二重の意味で不純である。まずは自らの学問的良心に対して、次に学会という業界に対して。もちろん、業界のルールに掠め取られてしまうような形での自己統治であるならば、まったくもって話にもならない。
しかし、大学院生にとっては、「エッセイ」の場はほとんどない。作り出すのも容易ではないし、そもそも与えられるような類のものでもない。いつかは、と思っているうちに試みたいという欲求が消えてしまうのか。それともどうにか打開していくのか。それこそ待つという受動的な(消極的ではなく)態度をとりながら、何らかの目的を解決・達成するのではなく、いつまでもそれを続けていくことが必要なのだろう。