偶然

大学院の演習での発表のためにリクールをねちねちと読み続けている。おもしろいような回りくどいような、変な印象をもつ。なぜこれを論じるにあたってそれを論じる必要があるのか、というのがいまひとつ掴みきれない。ベルクソンのように、かつて自分が熱心に読んだことのある哲学者についての検討を行っている部分に関しては非常におもしろく読めるのだが、そうでない箇所については苦痛を感じて読み飛ばしてしまうことも多々あり。
しかし、『記憶・歴史・忘却』の邦訳がもう少し早く出版されていて、しかももう少し安価なものだったとしたら、研究対象としてリクールを選んでいたとしても不思議ではない。いまや彼が属するような哲学の伝統とはまったく異なったところに自分はいる。しかも、そこに対してまったく関心がないどころか、科学認識論から出発した議論にどうも居心地の悪さを感じてもいる。自分の知らないことがあまりにも多く、彼らと同じ土俵に立って議論することもできず、思考の型を学ぶ以上のことをこれから先もできないであろうことが既にはっきりとわかっている。哲学史的な文献を猟歩することであれば、根気が続けばという条件つきで、自分でも何かができるかもしれない。しかし、事実に支えられた思考を提示することは、おそらく不可能である。
とにかく、いま研究していることは偶然によって選ばれたという以上のものではない。なんとなくフーコーが気になったからという以上の理由はない。しかしそれによって得たものも多い。「哲学」と呼ばれている領域には属していない事柄について、ある程度のことを言えるようにはなった。しかし同時に、「哲学とは」という素朴な問いが、これから先も頭から離れることはなくなったように思う。
今度の発表では、文献解釈という形式をとることはできない。ただ「自己について」論じよという課題があるのみである。そのような形で文章を書くことは、この二年近くなかった。しかし、このような形で思考するときに、哲学とは何かという問いが先鋭になる。どのような問いを発するのか、どのように問いを発するのか、問いをどこに限定するのか、どのようにそれを終えるのか。書き始める前から既に不安になっている。