読んだ

ミシェル・フーコー『狂気の歴史』
とりあえず論文に区切りがついたので、「専門」に戻る。哲学研究者共同体では、自分の専門を名のるときには必ず、「哲学者+研究」と言う。私の場合は「フーコー研究」。それ以外の名のり方をすると奇異の目で見られるか、頭がおかしいと思われる。本当は「権力と自己解釈」とでも言いたいところなのだけれど、もっとえらくなってからにする。
ついでに言うと、若いころに名のった「哲学者+研究」というイメージは、死にかけた引退研究者になった後でも残る。本当は他の仕事をしていても。もちろん若い頃にある哲学者を研究して得た思考法や発想法は死ぬまで(もしかしたら死んでも)残るものだから、その点では当たっているのかもしれないけれど。単なる因習なのか、それとも、染み付いた発想を払いのけるほどにオリジナルな思考をすることはほとんど不可能であるという諦念が共有されているのか。
年老いてから考えよう。

Maine de Biran Mémoire sur la décomposition de la pensée
こちらは毎週日曜日に三ページくらいずつ読む。月曜日の学部生向けの演習でティーチング・アシスタントをしているため。19世紀の頭に書かれたもので、フランス語がなかなか難しい。学部生のころは同じ著者の違う本を読んでいてさっぱりわからなかった。というわけで、そんな気持ちを忘れずに、学部生にはていねいに説明する。本当は、忘れようにもいまでも難しくて忘れられない。
しかしこの演習、けっこう楽しい。話のまとめを私がするという役割分担に気がついたらなっていて、私のことを先生と呼ぶ学生も複数。よくできた演習というのは、才気煥発だけれど少々まとまりに欠ける院生と、おだやかにそれを掬い取る教授、両者を見習う学生、この三つの構成要素から成る。しかしいまは、院生と教授の役割が逆転している。還暦に近い教授が、食べ盛りの中学生のようにお元気であられまして。若気の至りを捨てた顔をし、先生ごっこをして楽しんでいる。
その演習、朝から。よし、寝る。