正月の終わり

今日が日曜日で明日が月曜日。ようやく正月が終わるという気分になる。このように感じるのは、はじめてかもしれない。多くのところに挨拶に行き、諸々のことを片づける。休暇というよりは、普段は何もしていなかったことを埋め合わせる作業を急いでやるというのに近い。いちばんの息抜きは、実家で少しずつ大きくなっていた柴犬と遊ぶことだった。実家に行くことは、それこそ最大の苦難なのだが、犬の存在は本当に大きな救いだった。犬にとって私は、親戚のおじさんか、いとこのお兄さんといったところらしい。いかにも無責任で、実に熱心にかわいがるけれど、餌をあげるわけでもなければ体を洗ってやるわけでもない。大歓迎の噛みつきに付きあってやり、散歩をし、うんちを片づけ、家に着けば体を掻いてやる。それだけでも妙になついてくれるし、外に出て帰ってくれば再び大歓迎。実に素直なので、心ゆくまでかわいがってやる。犬は愛情の過剰に苦しむこともなく、実に幸せに生きている。
明日は長年の無礼を詫るために、いつ死んでもおかしくはない年齢の、子供のころ通っていた小児科医の家を訪れようと思っている。片方の肺を摘出してからも、すでに時間が経過している。その弟にあたる人が最近、長期にわたって連載していた文章を、本の形にして出版した。二人とも、社会的に大きな貢献をし、同時に文化人でもある。いまになっても兄と弟の間には、小さな不和の根のようなものが残っているらしい。本の中には、その若き兄を書いている部分もある。年を重ねているということは、それだけ、若い人間にはいまや創造もできないような種類のことを経験しているということでもある。いつも背筋を伸ばすようにして訪れる場所ではある。明日はまた、正月の煩わしさとは異なった、久しぶりの時間を過ごしに行く。