本屋通い

二日続けて本屋に行った。店内に喫茶店があって、テラスにも出られるようになっている。北向きでしかもそこには大手予備校の校舎があって、諸々のビルが建ち並ぶ裏通りという印象で、あまりよい景色ではない。それでも席に座ってしまえばその建物も背後になるし、久しぶりに天気がよいので読書もはかどる。最近になってある哲学者に関する本に手を出して、長いこと感じていなかった知的興奮にまみれておいた。なぜこんなにもたもたしていたのかと、自分でも呆れてしまう。しかし、何事にも適切な時期があるのだと自分に言い聞かせておくことにしよう。金と職のことで頭をいっぱいにしてしまうと、視野が狭くなって頭も悪くなる。どのようにしてもそれらとは非常に薄い縁でしか結ばれていないのだから、腰を据えることにしたい。とりあえずはきちんとドイツ語を読めるようにしなければ。積年の課題である。
金のためにやることというのは、結局のところ自分の身にはならないということがよく理解できた。むしろ他に職業を持って息を長く続けるほうが、自分にとってはよいのではないかという気がしている。もちろん時間的な制約はいまの視点からでは創造できないほどに大きいだろうし、毎日が自由時間という生活にすっかり慣れてしまったからには苛立つことも多いとは思う。しかし…。まあいい。そのときになってみないとわからないことというのは本当に多い。やってみて駄目だと理解できれば、それだけで大きな収穫だろう。とにかくまだ少しも追い詰められたわけではない。
名のある大学の研究室にいるからといって、職もないのに偉そうな顔をして他人を見下すんじゃない。他の職業を選択したからといって「もったいない」などど、どんなツラして言ってやがる。いまの場所に所属していてそう思う機会が多々あった。何か勘違いをしているのではなかろうか。しかし、自分の本当に身近にいる先輩たちは、むしろ自分の置かれた境遇に対して、もっと自然に生きているような気がする。なぜだか自分よりもずっと楽しそうに見えるし、不安を抱えている様子も焦りを感じている様子もない。もちろんえらそうにもしていない。この、「職をもつこと」に対する強迫観念はどこに由来するのか。考えてみれば実に下らない。これが論文の内容や書き方にも、日常に対する構えに対しても大きな影響を与えているということを考えると、暗澹とした気持ちにならないでもない。つまらない論文を書くようになったのは、無難であろうとすることが原因だし、それが嫌で仕方がないということも理解している。楽しくなくなる方向に行こうとしているらしい。
そんなわけで、読書が終わった後で本屋をぶらぶらした。気がついてみると、途方に暮れているときに本屋に足を運ぶ頻度が増えている。今日は結局何も買わなかったけれど、実に多くの本が存在している。実際に読んでみようと思うものはあまり多くない。物事を考えるうえで、自分にとっての背骨となるようなものがまた見つかればよい。