続き

なぜ上のような性格の悪い文を書いたのだろう。

すなわち、ムーゼルマンのような「人間の終極」を前にしたとき、倫理は、停止してしまうのだ、と。なぜか。ムーゼルマンを前にして、なお倫理的な威厳を保ち、通常の倫理の諸ルールを守って、上品に振る舞う人を想像してみれば理由はわかる。この「上品な人」の振る舞い以上に下劣なことはないだろう。つまりアガンベンが述べていることは、ムーゼルマンの前で倫理的であることは、究極の反倫理に転じてしまうということだ。(239−240頁)

ある規則を普遍的に基礎づけ・正当化しようとする試みの無益さを、哲学業界の中に身を置いてそのようにしている人々の姿を見ていると、嫌というほど実感するのだが、では自分のやっていることがそれほど大したものなのかと問われると、自信をもって肯定することはできない。フーコー的な高邁な倫理は、ムーゼルマンの前では意味をもたない。しかし、だからと言って、ムーゼルマンを、倫理を論じるにあたって特権的な形象とすることにも反感を覚えてしまう。
私の身近にムーゼルマンが現れるとしたら、どのような時か。この前テレビ番組で、ムーゼルマンが現れる可能性がないわけではないことに思い至った。若い癌患者である。その女性は、二人目の子供を妊娠している間に癌が再発した。しかしその人は産むことを選択する。いずれ自分は死んでしまうが、その後に、子供たちが支えあって生きてほしいと願ってのことだった。未熟児として生まれた二人目の子供は、健康に育つ。その約二年後、二人の娘の母親は息絶える。容態が急変してから死に至るまでの彼女の姿は、衝撃的なものだった。それまで被っていたカツラをとり、ほとんど髪の抜け落ちてしまった頭をさらけ出している。横になったまま苦しそうに体を折り曲げ、大きく口を開けている。ほとんど、人間には見えない。脳にまで転移した癌のせいで、複雑なことを喋ることもできない。体を動かすことはできず、目は見開いたまま、娘を呼んでいる。
現実はけっして感動的ではない。呼ばれた娘は母親のもとに駆け寄ったりはしないのである。小さな女の子は、そんな母親を恐れる。というよりは、それを母親と認識することができないのである。「ちがう」と女の子は言った。もはや娘にも母とはわからないような姿に、彼女は変わり果てている。結局、死の前日においてすら、女の子は母親だったものにけっして近づこうとはしない。番組のナレーションは、その事実を隠蔽しようとする。
こういった現実に直面しないことで、私の日常は維持されているのである。