花を見る

昨日と今日の両日、昼にも夜にも近所の大きな公園へと桜を見に出かけた。昨年まで住んでいたアパートの前の小さな児童公園には一本の巨木がそびえていて、その下で一人ビールを飲むということを毎年やっていた。桜の花はそれほど好きなわけではない(似たようなものなら梅のほうがきれいだと思う)けれど、それでも咲けば見に行ってしまう。風物詩と言ってしまえばそれまでだが、日本で生きている限りは誰でも桜を意識しながら春を迎えるものなのだと思う。
公園のサッカーグラウンドを一回り小さくしたような芝生の広場の周囲を、桜の木はぐるりと囲んでいる。昼間は春休みの子供たちが喚声をあげながら駆け回り、そいつらを連れた母親たちがレジャーシートを広げてくつろいでいる。夜はジョギングをしている人のほうが花見客よりもずっと多い。二、三の集団が静かに集まり、何組からのカップルが歩いていた。桜の名所と言われる場所ではまずない光景だろう。花見客はいつも桜の名所を台無しにする。どうして居酒屋と同じ酔い方しかできないのだろうか。子供の頃、父親に、花見をしている人々の見学にと、大宮公園というところに連れられたことがある。それまでは、何家族かがちらほらと、桜の木の下で弁当を食べているという花見しか見たことがなかったので驚いたことを覚えている。確か、缶ジュース一本100円の時代に、そこの自販機では150円で売っていたことにも衝撃を受けた。
ともあれ、たとえば静かな場所で桜を見ることができるというのが、郊外のよいところなのかもしれない。酔っ払いのほかには、昨日の晩は、好き嫌いをして晩御飯を食べなかったのであろう子供がマンションのベランダに締め出され、「開けて〜、開けて〜」としばらく泣き叫んでいた。20年以上も前、違う理由でまったく同じような状況に置かれたことがあるということを思い出した。