日常的

新しい日常が始まった。同居人が一般企業で働き始めたのである。数ヶ月ほど前までは予想もしていなかった。朝八時少し前に家を出て、神田と大手町の間にある会社に通う。同居人は、会社の所在地はあくまでも大手町であると主張する。そうかい。夜は七時過ぎには帰ってくる。まだ大して役に立つわけでもなく、ほとんどは残業を免除されるのである。それでも私共々、息も絶え絶えの一週間であった。
朝は六時半に起き、同居人が身支度をしている間に朝食を作り、いっしょに食べ、送り出し、食器を洗って洗濯をしてから勉強にとりかかる。腹がへったら昼食をとり昼寝をする。目が覚めたら再び勉強をして、六時前になったらテレビをつけて大相撲を観戦する。(安馬の呼び出しや館内放送のモノマネをしたり、朝青龍の取り組みに汗を握ったり。)その後、米を洗って晩御飯の支度をする。同居人が帰宅してからいっしょに食べ、食器を洗って少し勉強をして風呂に入る。最後に同居人の足をマッサージして寝かしつける。
以上が生活のスケジュールである。とはいえ、これを実行できたのは二日ほどのみ。あとは朝食後に労働者同居人に対する後ろめたさを感じながら昼まで寝ていた。いままで午後になってから目を覚ますような生活をしていたから、人なみの時間に起きるというのがえらく辛かった。おまけに私は寝つきがとても悪い。さらに悪いことには、だらだらとする時間をどうしても夜間にとってしまい、布団に入るのが遅くなってしまうのである。このような暮らしを始めて、世の人々は普通の顔をして超人的な生活をしているのだと知る。
時間の流れがちがう。必要な体力がちがう。これに加えて朝晩の通勤地獄に捲き込まれたら、私は一週間で死んでしまうだろう。軟弱な同居人がよくもまあ元気に生きていると感心する。
しかしまあ、明るいうちに勉強をしたほうが頭が冴えているのではないかというような気もしてきた。何よりも、一日三食、気合いを入れて作り、それ以上に気合いを入れて食べるというのはとてもよい。少なくとも先週は、文句のつけどころのないパーフェクトな食卓を展開し続けることができた。言うまでもなく、人に食べてもらえるというのはよい。しかし、自分で食べてうまいと思えなければ、いくら人がうまいと言ってくれても、気を遣ってくれているのだろうと訝ってしまい、素直にその言葉を受け取ることができない。だから、毎日気合いを入れて作る。もちろん、自分自身がうまいものを食べたいというのも大きい。失敗すると、何より私の機嫌が悪くなる。
食事を作り、食べ、家のことをする。生きるうえでの基本的なこと、というような御大層なことを言うつもりはないが、まあ、そんなものくらいは何とかやっていきたい。
ちなみに次の本が我が家の食卓を支えている。もう何年も使用しているが、真の名著。初心者にも丁寧で、手を抜かず、余計なこともせず。和食に関しては、この本でほとんど全てを学んだ。これ以上は趣味の領域だろう。私が求めるのは、毎日の生活を支えるためのものだ。

はじめての和食―この一冊で和食の基礎知識と基本料理が手にとるようにわかる

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