硬直

テロリズムの原稿を書き始めた。いささか不調。結局のところいつものように、イデオロギー論の地平に位置づけるという作業になってしまった。いや、どう考えても現代において暴力の行使はイデオロギーと切り離すことができないのは確かなのだけど、またこの問題で論じることになったのかと思うと、筆が進まない。もういっぺんまっさらな頭になった気で論じないと、聞いている人にとってわけのわからない話になってしまし。少々疲弊している。
こうやって「イデオロギー論」「イデオロギー批判」という形できちんと物事を考えることができるようになったというのは、思考の基本的な「型」ができあがったという喜ばしい側面をもつ。多くの物事を分析するための視座を獲得するということは、学問を志すにあたっては最初にやらなければならない作業なのだと思う。もしかしたら一生そこから抜け出せないかもしれないが。そして、それこそが問題なのだ、と感じてしまう。なんでもかんでもワンパターンに考える癖がついてしまったのではないかという恐怖感をもってしまった。思考や感性が硬直している症候なのではないと、本当に言い切ることができるのか。そもそも、この視点から論じることができない問題を、はじめから視野の外に追いやることになってはいないだろうか。
専門家を目指すということは、こういった側面を引き受けることでもあるのだろう。世界の見え方のひとつを他者に残しておく、という役割である。しかし、非常に神経症的という印象を拭い去ることができない。だいたい、哲学者というあり方とは真っ向から対立するように見えてしまう。専門家であることと哲学者であることは、必ずしも一致するものではないのではないだろうか。
とりあえず、本を読むための十分な時間がほしい。
本を読むために時間が必要なのは、それが最終的には何も得るところがないとしてもよいという余裕が必要だからだ。そのような構えがないことには、異質な思考に出会うことはできない。時間にばかり気を取られると、肌に合わないという理由で放り出すというのならまだよいほうで、手にとろうとさえしなくなる。時間をかけるための時間と余裕、それがほしい。