現れと隠遁

コメントに応えて。公的空間に現れ、自らの思考を口にするということは、知識人であることの要件であることのように思う。しかし、現代ではそれがテレビ知識人に限定されてしまっていることは確かだ。その他に現れの空間が存在しない。そこに自らを晒すという気がなければ、隠遁を続けたままで、公的空間において発言する知識人にはなりえない。奇妙な形の公的空間が形成されてしまっている中では、外にけっして開かれることのない専門家というきわめて閉鎖的な空間が、外部からの侵入を固く拒むことで辛うじて存立する。ある意味では別の公的空間を作ろうとしていると言うこともできるかもしれない。
しかし、問題はそれが閉鎖的で同質的だということである。テレビ的なものを持ち込まれることを恐れるのか、あるいは、孤島を作り出しで別の同質的空間を出現させることで、すべてがのっぺりとした同質性が形成されるのを防いでいるのか。いずれにせよ一定の意義を認めなければならない。孤独に思考する隠遁から、集団的な隠遁へ移行して言葉を発する。そのようなことなのかもしれない。
もちろん、集団的な隠遁の孤島が、公的空間として特権的なものと見なすことは誤りだろう。それは、テレビ的空間とは別の公的空間でなければならない。同質性を確保することで、「主流」から自らを確保するだけでは、学問という権威の名を借りた単なるオタク集団である。したがって、人文学の言説空間は、テレビ的空間からの隠遁によって見出される公的領域として、他者に開かれている必要がある。すでに形成された空間のルールを破壊するような形でテレビ空間に現れることはほとんど不可能である。ならば、すべての隠遁者に開かれた空間を作り出すだけの努力はしてもよいのではないだろうか。現れの空間ではなく、隠遁することで現れが確保されるような空間。それは「空気を読む」ことによって形成されるのではないし、「伝統」によって積み重ねれるものでもなく、応答と逸脱の繰り返しによって自らの基盤を掘り崩し、それを維持することが目的とされることもなく言葉が交わされるような空間だろう。隠遁によって「誰」が見える公的領域を作り出すこと。そのための知的体力を身につける訓練を、孤独な隠遁のなかで身につけなければならない。