あらたいへん

今年の四月くらいまでは、フーコーの権力分析をエピステモロジーの系譜に位置づけるために、カンギレムやアルチュセールを必死になって読んでいた。特にアルチュセールに関しては、フーコーマルクス主義に対する批判がどこにあるのかということを理解するために、かなり綿密に検討した。イデオロギー論を正確に理解するために、無駄に難解としか思えないうえに少しもおもしろいと感じられないラカン派の精神分析にも手を出した(こちらは結局、一般に流布しているフーコー解釈が精神分析学に由来するものだということがはっきりしたという収穫はあった)。三月に行われた研究会でアルチュセールイデオロギー論について発表したときに、精神分析はくだらない、俗流マルクス主義に何の意義があるのか理解しかねる、という意味のことをはっきり言ってから話を始めたために参加者から総攻撃を受けて、結局はアルチュセールを主題とした論文を書くことは諦めた。その代わりに、現在書き直し査読中の論文で、フーコーの権力分析を反省という観点から解釈するというそれまで考えていなかったアイデアが生まれた。その点では、エピステモロジーの系譜におけるイデオロギー論についての研究はけっして無駄ではなかったと思える。
しかし、今日になってやっと気づいた。もしエピステモロジーの系譜で権力分析を理解したいのならば、アルチュセールやカンギレムよりも、そもそもフーコー自身が書いた『知の考古学』を綿密に読まなければならない。最終章などは、なぜ科学認識論からあのような権力分析が出現したのかということを理解するうえで欠かすことができない。なぜそのことにこれまで気づかなかったのか。いや、これは修辞的な表現。『知の考古学』という本に興味がもてなかったのだ。まずその外的要因を挙げると、訳者の問題。あまり信用できない。しかしそんなことが理由になってしまうのは、自分の語学力不足のせいであって、訳者のせいではない。さらには、「知」という概念が前期と後期では異なっているという、根拠のない思い込みがあったからだ。博士論文を書くと(心の中で)決めてからこんなことに気づくとは。というわけで、始める前から青い顔。辞書とにらめっこをしながら一ヶ月で読もう。
しかし、論文に専念するための環境がまったくできていない。まずはりクールを読んで、年明けの演習原稿の準備をする必要がある。さらに、晩年のフーコーの講義録も読み終わっていない。余裕があるときであればストア派についての議論は興味があるのだが、どうしても焦ってしまい、エッセンスだけを知りたいと考えてしまう。非常に浅ましい。それこそ、ストア派の精神で研究に向かうべきなのかもしれない。学位を取ったからといって何とかなると考えているわけではないが、ないよりはずっとましであることも確かだ。
てなことを書いている場合ではなくて、とにかく勉強。環境ができていないという以前に、欠如している集中力を養う必要がある。一年間研究に没頭しました、というようなことを一度でいいから言ってみたい。