読み始め

いまさらながら立岩真也『私的所有論』を読み始める。来年行う予定の生命倫理の発表の準備として。とてもおもしろい。発想の仕方に親近感を覚える。凡庸な哲学研究者たちがいかにくだらないことをしているのかということを、改めて確認した。しかしどこの世界でも、優れたことをすることのできる人は本当に限られている。自分も、という気持ちがあるのはもちろんだが、それが実際に行うのは難しい。他人の非難は自分の能力を本当には認識していないがゆえにできるという側面がある。自分でやったことを他人に公表しながら、それでも他人を批判し続けることができる、というのがおそらく理想なのだろう。大したことをやってもいないのに、あるいは、とんでもないものを公表してしまっているのに、他人に対してとやかく言うのは、みっともない。とやかく言わずにはいられない性格なので、そうすることができるくらいのことは、やっていきたい。
話がそれた。「どうすべきなのか」と問う前に、我々は何らかの答えを出してしまっていることが多い。予想もしなかった状況に呆然とするよりも、既知の枠組みの中に、未知のものを押し込めたほうが、未知のものの前に呆然とするよりも楽だからだ。多分そうだと思う。そうなのだとしたら、そのようにして一定の答えを出すことを可能にしてしまう条件は何なのか、と問うことは、かなりの程度役立つことだろう。その答えに普遍性をもたせるために正当化するのでも、また普遍的な正当性をもちえないという理由で批判するのでもなく、そのように考えることが可能になった条件は何なのかと問うこと。「学者」である限りは、自分自身ももってしまう何らかの答えに対して、そういった種類の「批判」は最低限必要なことだろう。「学者」の役割は答えを出すことではなく、それぞれの答えが可能になる条件を探ることにあるはずだ。
あ、また偉そうなことを言っている。