ジツゾン的

友人にこのブログを「ジツゾン的」と評された。何のこっちゃいと思えば、生活者的である、ということらしい。なるほど。ジツゾンと言うと、生きる意味とは何ぞや私が私たらしめている核心的なものとは何ぞやといった類のことを考えるものであると思いがちだが、考えてみれば、日常の中心は、飯を作ったり掃除をしたり耳垢をとったりという、実に散文的な雑事にある。ほとんど動物的としか言えないことに創意工夫でそれぞれの色を加えようとしたり、他人に聞かせることができないくらいに阿呆なことで青筋を立てて罵り合ったりすることは、実に生きることから除去できないことだろう。果たして自分のように、乏しい経済力でいかにしてうまいものを食べるのかということを思考の中心に置くことが、「ジツゾン的」という言葉で形容することが適切であるかは疑問だが、雑事として価値を貶められがちな事柄の中に、見るべきものがあるとは思う。
しかし同時に、この形容語によって、自分が意識的に生活者たらんとしていることを言い当てられたようにも思った。実際、アルバイトに忙殺されて米を炊くこともなく、食器が流しにたまり、半年以上も部屋に掃除機をかけないという生活をしていたのは、つい最近のことだ。きちんとした生活をしようと心がけなければ、あっさりと逆の極に振り切れる。気分が殺伐とするだけでなく体調も悪くなり、研究どころではない。それをよく理解しているから、現在の生活がある。しかしそれもまた楽ではない。意識的にやらなければできないけれども、自分にとっては大切だと思えることを継続することは、なかなかしんどい。というわけで生きることはしんどい。こんな感覚が背景にあるから、このブログは「ジツゾン的」な面をもつのかもしれない。
しかし、これからまた書き方が少し変わるかも。それというのも、その友人が「君のブログはさ」と、研究室の面前で口にしたからである。別に隠すものでもないけれど、わざわざブログを書いていることを言って読んでもらおうとも思っていなかったので、事実上は秘密になっていたのである。けっこうにやにやされてしまった。なぜにこんなときは恥ずかしいのやら。まあ、少しばかり恥ずかしい行為ではありますよね。というわけで、その人が読者になるかどうかは別にして、何となく自己検閲の要素が増えるような気がする。どうでもいいことだけれど、匿名の人を相手に文章を書いていると、私的なことを垂れ流し、知っている人を相手にすると文章が公的な性格をもつ。普通に考えると逆になるような気がするけれど。
まあ、生活雑事日記ごときで何が変わるということはないだろう。