冗談にならねえんだよ

何かを自嘲気味に語ったとき、それが自嘲として語ったことが伝わらないことがしばしばある。自嘲という語り方は、語られている内容もさることながら、その語り方それ自体が伝わらなければ、コミュニケーションとしては失敗である。むしろ、内容よりも語り方のほうが大事なのかもしれない。諧謔の精神を深く身につけた者としては、率直に物事を言葉にすることがもはやできなくなってしまっている。恥じらいの感覚とでも言えばいいのだろうか。無論、それは単なるひねくれ者根性の為せる業なのかもしれないが。いずれにせよ、語り口それ自体によって何かを伝えようとする形式が、そのままある種の内容になるのである。
とはいえ、内容だけに着目されてしまう場合が、自分で感じていた以上に多いのではないかと疑うようになった。それは困る。自分から距離を取ろうとするアイロニー諧謔が、単なる卑下に見えてしまい、誇りのないいじけた人間だと思われてしまう。それだけならマシなほうで、言葉の内容をとって、内容そのままの人間だと思われてしまう。「本当のこと」は語られていないにもかかわらず。
冗談にしてもそうである。まだ物事があまりわかっていない子供に対しては、大人にしか理解できない冗談を言うのは御法度である。しかし、大人にだってわからない冗談はある。たとえば、金も職もない私が、女性に向かって「俺は主婦になる」と言ったら、それは冗談にはならない。こいつはヒモになる気かと恐怖を与え、本気で逃げ出すことを考え始めることはまちがいないだろう。主観的には冗談を言ったつもりが、客観的な条件から見てとても冗談には思えないのである。社会的な位置によって通じる冗談と通じない冗談がある。無論、冗談はそのような社会的な位置それ自体を自覚的に言われるものではある。しかし、それを冗談とわかるのは私だけかもしれない。
というわけで、私が下らない冗談を言ったときは、それを真に受けて恐怖するのではなく、「冗談にならねえんだよ」と冷たく一言くだされば幸いである。